歴史
古い歴史というのは半分創作である。たいてい為政者の希望に沿うように作られます。なかでも日本の場合、西暦720年に漢字で書かれた「日本書紀」以前のコトは、中国の文書か、状況証拠で推測するしかない。ちなみに日本という土地の記録が初めて登場するの『後漢』の時代。西暦なら57年でございます。
もっと言えば、卑弥呼の時代だって明確に解っていない。ハッキリしてるのは三国志の時代(西暦239年)に卑弥呼が『魏』へ使者を送った、ということくらいだ。縄文時代と弥生時代の境目だって不明。狩猟を中心としていた縄文人が、突如農耕を主体としていた弥生人になったワケじゃないですから。
卑弥呼の時代について書かれている中国の文書によれば、住んでいる人々は明確に縄文人の特徴を持つ。顔に入れ墨をしていたとあるし、生活様式も田畑を中心とした農耕民族じゃない。ただ縄文人も末期は大きな集落を作り、農耕も行ったらしい。やがて平地に関しちゃ縄文も弥生もなくなって行く。
卑弥呼は大シャーマン(占い師や巫女)だったと考えるのが妥当だ。それにしても中国人はひっでぇ名前を付けてくれたモンだ。卑弥呼の『卑』って「いやしい」。魏志倭人伝に出てくる日本の「クニ」の名前に「鬼国」や「鳥奴国」なんてのもある。これらの集合が中国人が言うところの「小日本」です。
ちなみに大和朝廷は大陸から伝わってきた技術を使う、明確な農耕民族だ。縄文人達は稲作が伝わり、大きなムラを作る弥生人が増えるや、里を終われ山で暮らすようになる。獣食をする縄文人の末裔は、仏教の伝来によりやがて為政者から士農工商の外側として扱われるようになった。
山で暮らす人達を『サンカ』などと呼ぶ。日清戦争時に20万人以上居たと言うから縄文人も頑張ったモンです。余談ながら最後のサンカの方は2009年に亡くなり、日本からいなくなってしまった。日本の為政者は大陸から入ってきた人達が作った大和朝廷を、先住民の邪馬台国と重ねたいらしい。
だからこそ日本政府は古墳を開けさせない。古墳を開けたら都合の悪いモノが次々と出てきてしまうからだろう。まぁ為政者に教えられた都合の良い歴史を鵜呑みにしちゃう人生も気楽かもしれませんけどね〜。日本の文化は縄文人と弥生人の良いところ取りをしているように思う。私は大好きだ。
いろんな意味で真実を伝えられるのは良質のメディアと良質の学者だと思っている。今の日本の不幸なところは、メディアも素直すぎる点にある。例えばどう考えたって3ドアHBと5ドアHBのアップ!を、なぜ同業者達は突然2ドア&4ドアと表記するのだろう? 理解できぬ。自分を持っていないのか?
ということを考える今日この頃です。昨晩アップしたTOPは、そんな気持ちが強く前に出たもの。少なくとも私は素直に国や企業の言うことを聞きたくない、と思う。それには良質のメディアが必要だ。いや、私のWebが良質と言ってるんじゃないですよ。念為。ぜひとも御支援を頂きたく思います。
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私は国沢さんの世界観や史観が大好きです。
税制観は違うようですが。
悩みに悩んだ現在のマイカー選びの際に巡り合ったこのHPは、現在では「ある事柄についてどう考えるか」という指針のひとつになっています。
勝手な解釈ですが、文章から「日本が好き」が伝わってくるんです。私は日本が大好きなので、それがわかると、これまた勝手な解釈をしています。
まったく関係ないですが、大河ドラマ『平清盛』も大好きです。面白い!日本ってすごい!東国の様子がどう描かれるかも楽しみです。いろいろあって日本国ですから。
私の支援は欠かさず読むという事になると思います。
いつもありがとうございます。
「山窩」って知りませんでした。
日本人として恥ずかしい気持ちです。
文字変換でも素直には出て来ません。
東松山の話….人として情けない….
しかし、大陸の連中は酷いもんですね。
卑弥呼って確かに「いやしい」って文字ですね。
あらためて知って何だかガッカリな気持ちになりました(笑)
大昔だけでなく近代の歴史も学校では教えてくれません。
子供の頃に社会の教科書が明治で終わってしまうのを不思議に思い質問した記憶があります。
先生は「大人の事情」って答えました(嘘:笑)
そろそろ歴史の義務教育を「正しい内容」に少しずつ直しても良い頃合いに思います。
このままでは何時までたっても中国や韓国の人々が怒っている理由を日本人は解りません。
客観的に中国や韓国の間違った歴史教育にキチンと反論出来る知識を皆が共有すべきと思います。
けっしてナショナリズムを煽る方向ではなく。
仁徳陵しかりです。
自分も発掘に携わったことがあり
全国各地の天皇陵と言われる古墳群には大変興味があります。
日本書紀、古事記の世界が崩れてしまうことを
日本人のアイデンティティの喪失と捉える学者も多いのでしょう。
熊本には鞠智城(きくちじょう)の遺跡があります。
こちら
http://www.kofunkan.pref.kumamoto.jp/kikuchijo/
百済系菩薩立像が見つかりましたが、
その小さな像はまるで法隆寺の百済観音像のミニチュアのよう。
人それぞれ好みがありますが、
自分はきっと師匠と同じく
遺跡などの古代からの遺産の
すぐそば、その前、あるいは、その上に立ち
思いを巡らせ、学ぶことが好きです。
また、そちらにお邪魔したとき
ぜひ、こんな話もしましょう!
よろしくお願いします。
古代史の推理は楽しいですね。私は弥生人は前期と後期があり、前記は東南アジアと中国の狭間を通って来た人達で、小柄で顔に刺青もしていた。中国の歴史書では、そもそも倭人とは、中国南部の辺境にいる人達のことのようです。その倭人が楽浪海の島にも居たと…私は前記弥生人をモン族と呼んでいます。人間を"モン"や"モノ"と呼ぶ人達、今でも"イナカモン"や"**会社のモノですが…"と言いますよね。大和時代での彼らの末裔は物部氏であり、彼らの神様は奈良・三輪山の大物主命、別名:大国主命。後期弥生人は和族または天孫族…自分を"ワレ"や"ワタシ"と呼ぶ人達。大国主命が造った国を剣の力で譲り受けて支配者となり、大和朝廷を確立した。彼らの神様は天照大明神…前記弥生時代は平和な登呂遺跡の風景で、縄文人とも同化していったのではないでしょうか…一方、後期弥生時代は要塞のような吉野ヶ里遺跡の風景…後期弥生人はどこから来たのか?…この続きはまたの機会に…自分勝手な古代史ですみませんでした。
出来ればスタッドレスタイヤの各社レポ宜しく御願します。