交通事故も原理主義で
クルマを運転していれば、誰だってミスはある。言うまでもなくミスと意思を持っての犯罪は全く違う。けれど今やメディアがそのミスを許さない世の中になってしまったようだ。宇崎竜童さんが起こした追突事故、信号から発進した際、先行車に追突するという誰でもある形態。「悪意」という点じゃ限りなくゼロ。
なのに新聞などのメディアは「追突されたクルマに乗っていた2人の女性が首を打ち軽症を負った。自動車運転過失傷害容疑で書類送検」などと大仰に報道。「宇崎は」と敬称無しの犯罪者扱いで報じるスポーツ紙もあったほど。「自動車は社会悪」と考えている若い記者達に聞くと、本気で「クルマなんか乗らなければいい」と言うから驚く。
確かに過失傷害なんだけれど、もう少し「余裕」を持てないものだろうか。事故は誰にでもあるもの。その時点でツツくのでなく、事故を起こしたのに十分詫びなかったとか、賠償義務を果たさなかった場合、叩けばいい。今回のような事故、どんな人にでもありうること。問題は事故を起こした後の対応だと思うのだ。
つまり
「事故を報じるなら最後までやれ」ということです。例えば「宇崎竜童さんは事故の賠償をすぐ申し出て、その夜に菓子包とサイン入りのCDを持って謝りに行った」みたいな終わり方になっているなら、人間としてのけじめの付け方の啓蒙になります。メディアは起承転結を報じなければならないと思う。なのに今や悪い部分だけ流しっぱなし。
先日、歩道を歩いていたら東洋人(国籍不明)のおばさんが運転している自転車に後ろから衝突され、軽く流血した。痛みは相当のもの。ここで「正規の解決法」を取るなら交通事故と同じ。警察に通報し、病院に行き診断書を貰う。おばさんは当然ながら書類送検。おばさんに診療費とそれなりの慰謝料(まぁ数千円か)を出させる。
考えているウチ、アホらしくなった。だって怪我など軽ければ簡単になおる。そんなことのために書類作って交渉してイライラすることなどナンセンス。おばさんも「運が悪かった」くらいにしか思うまい。しかし前述の方法以外は、原理主義者によって全て否定される。軽微な事故についちゃ警察の居ない地域の解決方法を学ぶべきだ。
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世の中に余裕が無くなってきてますね。
経済的にも、人の心にも。
マスコミの害悪も顕著です。
ワイドショーなんか観てると人間の最も卑しく、あさましい様相が表れていると思います。
品性下劣な人間が制作しているんでしょうね。
私もマスコミについて一言。
先日地震で東名牧の原で地盤が崩れた時もわずか数日であそこまでの復旧を成し遂げたことは関係者の努力と苦労をねぎらうのが人間としての「常識」のように思いましたが、私がたまたま見たテレビのニュース番組では現地からレポートする女性が「復旧までにこんなに日数を要したことが今後の課題だ」などと締めくくっていたのでびっくりしました。
あまり事を深く考えない人がそれを聞いて「これはそのように考えることなのか」と思うこともあるのかな、と、危惧しました。昨今の日本人の権利意識丸出しのクレーマー体質はこういうマスコミが作っているのか、とも思った次第です。
お世話になっております。
数年前、出稼ぎ外国人に車で追突されてしまいました。
「逃げられる。もう終わりだ〜」と思いました。
しかし、任意保険に入っており、勤め先(人材派遣元)の監督者が警察までやってきました。
慣れない日本語で話す小柄な外人が、コワイお巡りさんに「国際免許が日本向けのものになってない!」と追求されてかわいそうでした。保険屋の対応は早く、当日中に修理依頼でき、代車が届きました。
車は完治しませんでしたが、見た目は戻ったし通院代をもらったので、終了としました。
あの外人さんはクビにならなかったかな?まだ働いているのかな?と思う私は、バカですかね。
そう思った私が物損事故で加害者になったとき、ヘンな示談要求をされなかったこの世の中は、まだ良いほうなのでしょうか?
私もやはり、世の中にもっと余裕が必要だと思います。
「自動車運転過失傷害容疑」という名前に変わってから、より悪い事のように感じますね。