レバ刺し
原発再稼動反対の動きはTV朝日が積極的に取り上げるようになった。おそらく一部の民放と国営放送を除く大手メディアも続々と取り上げるようになるだろう。私のような超ミニメディアが出来ることは終わり。やっぱり大手メディアの訴求力たるや絶大! これまで再稼動反対で頑張ってきた人たちの努力の賜物です。
災害の時のボランティアと同じで、それぞれ「出来ること」が違う。私は再び「世紀末」でも自分の生活を快適に送るための術を追求したい。例えば「レバ刺し」。私は好まないので無くなってもいいけれど『食』って大切な文化。官憲に「やめろ!」と言われて「はい解りました」なんて羊のようなニンゲンにゃなりたくないです。
すでに牛の生肉を食べることは禁止された。しかし! ステーキのレアが禁止されることなど絶対あるまい。そんなことしたら欧米からバカ扱いされるからだ。官僚って国民から「バカ」と言われても平気。誰だって自分よりバカからバカって言われても気にしない。でも尊敬すべき欧米の皆さんから「バカ!」といわれたくない。
実際は「タルタルステーキ」も禁止になったので「日本には生食できるような良質な牛肉がないのか?」とフランス人は不安に思ってるようですけど。ちなみに私はステーキといえば「ベリーレア」。厚めの肉だと、今でも生の牛肉の味を十分楽しめる。レバ刺しも同じ。文化人は常に「プランB」を考えるべきだ。
電気で言えば、最終的には東電から電気を買いたくない。その前の段階として早急に「原子力が無くても無問題」を目指したいです。とりあえず出来るのがリーフtoホームの導入。こいつを付ければ、電力不足になる昼間は家庭での消費量ゼロ。電力に余裕のある夜間に安い電力を買って充電しておけばいい。
そのうち太陽光発電を導入し、ホンダのコージェネでも入れれば、東電から買う電気は昭和30年代のレベルになるだろう。驚いたことに太陽光発電を導入している戸建が100万戸に達したという。日本の戸建て住宅は2650万戸。半分に太陽光発電+電気自動車or電池入れば、下を見て原発20基分が不要になる。
原発の電力が安い、と言う人は「投資が儲かる」という人のようなもので、もはや価値感の違いだ。福島の復旧にはスイスの試算で366兆。ドイツの試算だと731兆円! という膨大な「負け」。この負けを忘れてしまってます。私は「借金を返してから考えよう」と思うけれど「次は負けない」と考える人もいる。
価値感の話をしても理解しあえず。バクチなら損をするのは自分だけだし、損をしても楽しい。されど、原発はプレーヤーだけの問題じゃありません。負けたら他の人の生活や健康まで奪ってしまう。微力ながら「原発がなくても快適に過ごせる技術」(出来れば節約にもなる方法)を紹介していきたいと思う。
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原発の賭けに奔走してる胴元は、政府でも民主党でもない、官僚の人たちなんです。しかも、たちの悪いことに官僚は自分たちに権力があるなんてこれっぽちも思ってない。日本のために全力を尽くしてると思ってる。
非能率な残業仕事が終わると家に帰って発泡酒飲むのが楽しみ、休日はファミリーレストランか回転寿司で一人1000円の予算でつまやかな贅沢。権力者の姿ではありません。ただ、この「小さな幸せを守りたい」「自分の仕事を維持したい」が、「原発を継続したい」になってしまってるんです。
日本の政治家は国民に媚を売って当選させてもらうことが第一なので、マクロな国政なぞこれっぽちも考えていない。イタリアのように、政治家を排除した政府をつくらないと解決できないのかもしれません。
国沢師匠の見解に概ね合意しますが、原発の進退に対する意思決定の指標はやはり経済合理性しかないと思います。
よい悪い、好き嫌い、危険安全等の尺度を測るには、それらを数値に置き換える物差しが必要で、金銭価値に置き換えるのが最も都合がよいのです。
となると、極論では、「命の価値は金に置き換えられるのか?」となりますが、置き換えられない人とはディスカッションしても無駄です。
その上で、事故の発生確率と、その際の損害を、正確に試算した上で、圧倒的な経済合理性が証明されない限り、脱原発に向かうべきと考えますが、政治に改革を望むのは期待できそうにないですね。
レバ刺し!
明日のブログに書く予定ですが
熊本にはあのレバ刺しがあります!
おいしいですよ!
ま、実は自分もあまりレバ刺しは食べないのですが。
ぜひ、勝俣編集長とお越しください!
待ってまーす!
うちの太陽光発電(2.8kwh)、ばっちりです。
昨年に比べ電気使用量は約3割ダウン。
昼間の使用部分を発電で賄い、残りの部分の
売電もそこそこに。
お天気が気になる毎日です。
経済合理性ほどいい加減なものはない。
為替の変動を見るだけでも経済的価値は時代と共に激変している。
100年後に残された放射性物質の管理をする人間の人件費は一体幾らなのか?誰にも判らない。
100年前をちょっと振り返ってみればいかに危うい考えかが判る。