師匠はムスメの名付け親
20歳の時くらいから月刊オートバイという雑誌で仕事を貰うなどしているウチ、GOROやホットドックプレスなどからも声が掛かるようになってきた。本来なら就活しなければならないのに、フリーランスのマネゴトのようなことをやっていたため学校行く時間などない。
4年になった1980年のこと。芳文社という出版社がホットドックプレスやポパイを少しポピュラーにしたような『大学マガジン』という雑誌を創刊するということで声を掛けられる。原稿書いてるウチ、当時の編集長の佐々木さんという方から「クルマの試乗記を書かないか?」。
驚くほどの抜擢である! さすがに22歳の学生だけじゃメーカーにメンツが立たないと考えたのだろう。当時飛ぶ鳥を落とすイキオイだった徳大寺有恒さんと交友のあった佐々木さんは、何と! 私の試乗記の監修として「まとめ」を書いてくれるよう依頼する。
最初の試乗記は今でも昨日のように思い出す。出たばかりのスカイラインターボです。翌月は最初のFFファミリアでしたね。私の拙い原稿を読んだ師匠は面白がってくれ、何度かお会いすることになる。当時の師匠ときたら、そらもう凄い存在感でございましたね。
やがて「国沢君。自動車雑誌の編集部員にならないか?」。即座に「はい」ということになり、ベストカーガイドに行くように言われ、とりあえず文章書いて持ってこいとなり、編集局長だった正岡さん(ベスモの社長としてのほうが有名かもしれません)と会う。
すると「荒削りだが面白い観点だ」と、本来なら募集を終わっている時期に入社試験受け、社員となるのだった。当時、師匠はベストカーガイドの主筆。当然の流れで師匠のおつきや、原稿の受け取り、運転手などする機会も多く、毎日が修行と勉強でございました。
師匠の字は難読である。いや、当時の売れっ子作家は皆さん難読。そいつを誰でも読めるようにするのだけれど、難読パワーはダークサイドと言って良いくらいの魔力を持っており、私もすっかり難読の字を書くようになってしまう(編集部員の時はキチンとした文字でした)。
毎日のように怒られ、でも毎日いろんなことを教えられ、気がついたら今の私のベースが出来た。といっても師匠の文体はマネせず。というか恐れ多かった。しかし自由気ままな表現方法や、自動車業界だけにとらわれない話題や内容についちゃ師匠の強い影響だ。
大変失礼な言い方をすると、私にとって師匠は「紅の豚」だった。ポルコにそっくりな体格ながら、カッコよかった! どんなに怒られても不思議と納得した。理不尽なことであってもです。魅力あったんですね。今でも思い浮かぶのは往年の元気一杯の頃の師匠である。
全く恩返し出来ていないけれど、少しは気にいってくれることもあったのだろう。スープラの試乗のためベストカーの宇井さんなどとLAに行った際、私の助手席で「国沢、踏め! 行け!」。このときの武勇伝は晩年のお気に入りでした。何度も冷やかされましたから。
LAは「国沢に任せる」ということでポートフィーノという海沿いのホテルを取り、桟橋で食べたカニも多いに喜んでくれた。はたまたポモナのスワップミートにホンダのスズキュウさんと一緒にお連れしたら、これまた古いアメ車を前にクルマ談義止まらず。
私にとっての徳大寺有恒は大きな大きな存在である。徳大寺有恒との出会いが無ければ、今の私は100%無かった。今は楽しかったことばかり思い出します。
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