道路交通法の目的を改めて考えてみたい。横断歩道の近所に人が居たら止まれ、とは違うと思う

ここにきて日本国憲法の基本理念となっている「前文」を再確認しようという動きが出てきている。ややもすると自国だけ良ければバンザイになりがちな我が国ながら、前文には国際協調しなければならないと書いてあります。同じように道路交通法も基本理念を考えた方がいいと思う。ここにきて違反件数が減ったため警察は拡大解釈して取り締まりを増やしているように感じる。

ということで憲法の前文にあたる「目的」と書かれた第一章を全文そのまま引用してみたい。まっこと興味深いです。「この法律は、道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図り、及び道路の交通に起因する障害の防止に資することを目的とする」と書いてある。困ったことに日本語的にはダメダメだ(笑)。「その他」が何を示すのか不明。最後の文も意味不明だ。

私の弟子がこんな文章書いてきたら、即刻「ワカラね~よ!」と書き直しを命じる。とはいえ最初のパートは安全を。次で円滑な流れを。最後で「とにかく交通のジャマにならんようにね」ということなんだと思う。個人的には移動時の基本原則だと理解している。道路は道路として機能させ、そこを安全でスムースにクルマや自転車、歩行者などが移動していくという姿だ。

ここにきて大きな論争になっている横断歩道を道交法の「第一章」で考えてみたい。クルマ嫌いの皆さんは歩行者が最優先されると主張しているが第一章を見る限り道路の上では皆平等である。その前提で第38条に「横断歩道を渡っていたり、渡ろうとしている人は妨害するな」と書いてあります。そもそも横断歩道に限らず歩いている場所に突っ込んで行くのは第一章の概念と全く違う。

「渡ろうとしている人」は、渡っている人に限りなく近い。したがって優先権があるという解釈になるだろう。だったら横断歩道に差し掛かってない人はどうか? ここで解釈に大きな違いが出てくるのだった。第一章では「危険」を防止すべきと書いてある。横断報道を渡ろうとしているのか待とうとしているのか解らないときは、危険の対象じゃない。「譲る」か「譲らない」かの判断だ。

ただし横断歩道に近づいたら止まれる速度まで落とせ、とも書いてある。総合的に解釈すると1)明らかに横断歩道に人が居なければ通過。2)横断歩道の近所に人が居たら横断歩道で止まれる速度で接近(速度の基準は無)。3)人が渡っていたり渡ろうとしていることが明確なら停止。4)態度不明であり危険性無ければ通過。というあたりになると思う。

 

さらに社会常識では例えば横断歩道に1人。道路側はクルマ3台が連なっていたとしよう。平等という社会通念からすれば、美しいのは歩行者がクルマ3台を通過させてから渡ること。この場合、1人と3台だから譲るバランスとしてもクルマ優先が普通。クルマ1台と歩行者1人なら、二酸化炭素排出量削減の観点などからしてもクルマを止めない方が大局的に評価したらECO。

さらにこういった交通マナーを考えながらクルマに乗ったり、歩行者となったりすることの意義は大きい。どちらかが優先を主張しても、守らない輩に出くわすと身に降り掛かる「危険」となってしまう。平等だと考えていれば、お互いに考える。といったことを基本概念として皆さん持っていれば、飛び出しによる事故などを防げることだろう。事故はお互いの努力で防ぐものだと思う。

警察は全てクルマのせいにしようとしている。第一章の理念と違う。

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