フェアレディZの父、ミスターKと敬愛されていた片山豊さんのインタビュー原稿が見つかりました!前編
フェアレディZと言えば誰が何と言っても片山翁(おう)である。御年99歳(2008年時点です)。50歳の私がこの葉界に入った28年前、すでに71歳を迎えていたというのだから途方もない話だ。片山翁はアメリカの自動車好きの中で、最も有名かつ人気のある日本人と言って良い。こう捨くと「本田宗一郎氏では?」と思う人も多いだろうけれど、アメリカとの密度や深さからして大きく違う。
2008年の夏でした
最近、日本でもフェアレディZ好きから「フェアレディZの父」として敬愛されており(ミスターKという愛称も広く知られている)、片山翁をイベントに招動出来た主催者は大いに評価されるそうな。さて。私が駆け出し新米の頃、すでに片山翁は「伝説の人」だった。当時の日本では、今ほど一般の人々に知られていなかった。片山翁のことを煙たがっていた日産経営陣の強い意志だったのだろう。
メディアに対し片山豊という名前を出すことさえ禁じていたという逸話もある。インタビュー中にも出てくるように、片山の社交的で朗らかな人柄は役人気質の人が多かった日産幹部からすれば、受け入れ難かったんだと思う。そんなことから日産在籍中の功績はほとんど紹介されていない。したがって新米の私にとってみれば「何となく怖い人」というイメージしかなかった。
それが10年ほど前まで続いていたけれど、アメリカの自動車社会を取材すればするほど片山翁の功績に出会う。簡単に言ってしまえば、アメリカで高い評価を得ている日本車ディーラーの売り方を確立したのは片山翁と言っても良いほど。以来、一度ジックリ話を聞きたくて仕方なかった次第。以下、その望みがやっと叶った時のインタビューでございます。
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国沢 初めまして。国沢光宏と言います。自動車メディアという仕事を始めて28年になります。この間、何度も片山さんのお姿は拝見させて頂いています。何からお聞きしたらいいのか迷いましたが、日産自動車に入社なさる前からお願いしたいと思います。
片山翁「私は静岡の生まれなんですけれど、父親の仕事の関係で神奈川に移りました。学生時代は海外旅行ばかりしてましたね」
国沢 海外旅行ですか! 学生時代と言えば1930年前後(昭和5年)だと思いますが、今のように簡単なことではなかったと思います。どうやって海外に出たのでしょうか?
片山翁「私が出た湘南中学(注・今で言う高校)は海軍の予備校みたいな雰囲気でしてね、鎌倉あたりに行くとビシッとした制服を着た海軍さんも沢山住んでいてとてもカッコいいワケです。その海軍さんは外国を向いていましたから、自然に海外を夢見ちゃうんです」
国沢 勝海舟や坂本竜馬が創り上げた海軍は創設当初から外国と積極的に交流していたと聞いてます。とは言え普通の学生ではそんなことを考えなかったし、実行できなかったと思います。どのあたりに行かれたのですか?
片山翁「身近だったのは今の中国東北部や台湾などですね。パスポートが要らないアジアの地域も多かったんです。アメリカにも行きましたよ」
国沢 昭和5年でアメリカですか! こちらはパスポートも必要だし、さらに難関です。
片山翁「二十歳の時ですから昭和4年だと思います。大阪商船の船員という身分で貨客船に乗り、バンクーバーに入港しました」
国沢 アメリカでどんなことを考えましたか?
片山翁「2週間滞在したのですが、全てのことに驚きました。もう日本と全然違うワケですから。自動車もたくさん走っていたし。1928年製のスチュードベーカーにも乗ったなぁ」
当時の広告
国沢 1928年製(昭和3年)のスチュードベーカーは博物館で見たことがあります。
片山翁「外国に行くと文化だけでなく価値観まで違う。それまではエンジニアになりたかったのですけど、モノを作って売る仕事も面白そうだな、と海外を見てから考え方が変わりました」
国沢 語学は問題無かったということですか?
片山翁「湘南中学で習った英語で不便は感じなかったですね。海軍は語学力が必要でしたから」
国沢 社会人になられたのは昭和10年ということなので、日産自動車創業の翌年になります。ちなみに大学は慶応とお聞きしています。
片山翁「そうですね。当時の社長は日産を創った鮎川義介さんでした」
国沢 鮎川義介さんという名前も、私にとっては伝説の中にあります。入社当初、どんなお仕事をされていたのですか?
日産の創業者である鮎川義介氏
片山翁「まぁ今で言う営業です。でもあまり忙しく無かったから、出来上がったシャシをボディメーカーに回送するようなこともやってました」
国沢 昭和初期は今のトラックと同じようにシャシとボディの工場が別々でした。
片山翁「そうです。シャシの上にシートだけ付いているという完全なオープンカー。気持ちよかったですよ!」
国沢 昭和14年に満州(今の中国東北部)に渡られています。
片山翁「後で思うと軍部が創ったイメージだったんでしょう。昭和初期の若者は満州で馬賊になることが憧れでした。私も同じ。満州の仕事の話になった時、真っ先に手を挙げました」
国沢 私の世代まで”満州に行って馬賊になるのが男の子の夢”という伝説は残っていました。祖父などがそんな話をしてくれましたので。私は学生時分、馬に乗っていたのですが、その話に啓発されたようなものです。
片山翁「けれど満州に行ってみたら話が全然違う。何しろ陸軍の統括ですから……。日本人のイヤな面をたくさん見ました」
国沢 世界を向き開明的で洒落ていた海軍と違い、陸軍は恐ろしく閉鎖的だったというのは様々な資料や書物に書かれています。
片山翁「理想と現実の違いにガマン出来なくなって昭和16年に帰国し、そこからは自動車関連の物資を満州に運ぶ仕事しました。で、終戦です」
国沢 戦後、日産が再開すると戻られた。
片山翁「宜伝の仕事をしたい、という希望を出し50歳まで宜伝部に居ました」
国沢 アメリカに渡ったのは1960年と聞いております。まだ直行便などなく、おそらく羽田を出てウェーク島とハワイで給油してサンフランシスコだったのではないでしょうか。
片山翁「そうですね。しばらくしてハワイに一回止まるだけでロスに行けるようになったんです。当時、アメリカの西側は丸紅。東側が三菱商事に委託して自動車を販売していました。向こうに駐在するや、お前は何も仕事をしないでいいと言われたので驚きました」
国沢 そんなアメリカの販売状況を見て面白くなかった、ということでしょうか。
片山翁「なにしろモノを作って売るという仕事をしたかったんですから。黙って見ていればいい、じゃ楽しくありません。そこで販売権を取り戻したんです」
国沢 本社の反対は無かったですか?
片山翁「総合的に判断したんでしょう。結果的に販売権を取り戻したのですけれど、本社は川添さんという人をニューヨークに派遣して東側の37州を担当させ、市場的に小さい西側13州が私の担当という具合でした」
国沢 片山翁は多くを語らないけれど、日産の歴史は経営陣と労働組合との複雑な関係の歴史と言っても良い。昔からを知る人に聞くと、陰湿な体勢が大嫌いだったそうな。アメリカ駐在も決して前向きな話でなく「国内に居るとウルさくて面倒なのでアメリカに行かせ、マーケット調査でもしてもらおうか」という名目だったという。
しかし前述の通り片山翁は身長182cm。今でこそ珍しくないものの、昭和20年代の日本じゃ巨漢である。行動力も精神も体格も広大なアメリカ向きだったのかもしれない。加えて学生時代から外国に対する見識をキチンと持っていた。ここから「ミスターK」の伝説が始まるのだった。
<続く>
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続きが楽しみです!!
さすが国沢さん!
こんな話をタダで読んでいいのかっ!
続きを心待ちにしています!!