フェアレディZの父、ミスターKと敬愛されていた片山豊さんのインタビュー原稿が見つかりました!後編
国沢 1960年時点で販売している日産車(その時はダットサンというブランド)は何車種くらいあったのでしょう。
片山翁「主力はダットサン210でした。1958年にオーストラリアラリーでクラス優勝したクルマです」
国沢 ラリー好きなので知ってます。オーストラリアラリーの参加台数67台。210は当時直伝課長だった片山さんが監督を勤め、初参戦ながらクラス優勝したクルマです。
片山翁「速さが足りないのは認識していました。だから壊れそうな箇所をしっかりメインテナンスしながら走ったら、いつの間にかクラストップになっていたんですね」
国沢 210はアメリカでも通用出来た、ということですか?
片山翁「耐久性は問題なかったですけれど、輸入車No1のVWビートルと比較すると、高速性能とプレーキが全くダメでしたね。アメリカを走り回り、本社に改良をリクエストしました」
国沢 すでに日産のディーラーネットは充実していたのですか?
片山翁「無かったです。販売台数も1960年はアメリカ全土で1500台ですから」
国沢 今でもディーラーの数を増やすのは大変です。
片山翁「その時も同じですよ。GMやフォードのディーラーに行っても社長なんかとは絶対会えない。せいぜい営業課長くらいです。すぐ既存の新車ディーラーでダットサンを売って貰うのは諦めました」
国沢 アメリカで新車ディーラーをやっている人は、今もそんな感じです。
片山翁「中古車ディーラーを回ることにしたんです。若くて将来性のある人とたくさん出会いました。毎日のように中古車ディーラー回りをしている内に、ダットサンも売れ始めた」
国沢 1965年の販売台数を見たら2万台!わずか5年で凄く伸びています。
片山翁「当たり前のことですが、ディーラーの社長は自動車メーカーにとって最初の顧客です。ディーラーの人を満足させられないようだと、クルマなど売れません」
国沢 ディーラーの社長に対し「最初のお客さんはあなたです」と自動車メーカーがアピールするのは、今やアメリカで常識になっています。というか、私も初めてアメリカで聞いた時、とても感銘した考え方でした。片山さんの考え方だと知ったのは、つい最近のことです。
片山翁「今から考えると信じられないかもしれませんが、1960年代までの日本車は同じ部品番号でも生産ロットによって形状まで違うんです。どんどん改良していったんですね。だからアメリカで補修部品の供給体制を作ろうとしても、なかなか上手くいきません」
国沢 解ります。ホンダなどが最も複雑だったようです。今でも古いオートバイなど車体番号まで指定しないとダメです。
片山翁「オーストラリアのラリーで得た教訓なんですが、やはりクルマは売っただけじゃダメです。壊れるし、部品の交換もしなければならない。人間と同じで、薬やお医者さんが必要。そこでユーザーに喜んで頂けるよう、徹底的にサービス体勢を見直しました」
国沢 これも現在に引き継がれています。アメリカで常識になっている部品の翌日調達率(パーツをオーダーし、手元に揃うまでの時間。早くて数日。遅ければ2週間というのがそれまでの常識)の向上策は、片山さんが手がけたと聞きました。
片山翁「部品の調達システムやサービス体勢をキチンと構築できなかった結果、イギリス車は徐々に衰退していったんですね。1965年に本社でも導入していなかったコンピューターを入れて部品の管理を始めました」
国沢 アメリカに渡り、わずか5年間で現在と全く同じアメリカのビジネススタイルを確立したということに驚きます。というか今やアメリカでは日本車の売り方がいろんなビジネスのお手本になっている。それを片山さんは作り上げたのだから凄いと思います。これだけ売ると日本側も無視出来なくなったんじゃないでしょうか。
片山翁「1965年くらいになると、日本からは何も言ってこなくなりました。売れていればいいや、と思ったんでしょう」
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けれど片山翁にはやりたいことがたくさんあったのだろう。何しろ日産自動車に入社した理由も、学生時代に考えた「良いモノを作って売りたい」という海外経験によるもの。すでに55歳となっていたが本格的に動き始める。ちなみに川添氏を初代の米国日産社長にしようという日産側の戦略は失敗。1965年に片山翁が米国日産社長に就任した。「アメリカは片山に任せた」ということ。
この時点で相当の自由裁量権を得たに違いない。初代フェアレディZ(S30)は代表例と言ってよかろう。すでに日産は「フェアレディ」というオーブンボディのスポーツカーをラインナップしていたものの、安全基準の変更で販売出来なくなることが決まっていた。そこで1960年代半ばから日産本社に対し熱心な働きかけをしていたのだけれど、なかなか進捗しない。
されど米国の功績を看過出来なくなっていたのだろう。「反対が無い」ということから片山はほとんど見切り発車をする。とはいえ決して恵まれた環境ではなかったと思う。スタイリングは松尾さんを中心とするごく少人数のチームだったし、車体の基本コンポーネンツもブルーバード510と多くの部分を共用することになった。その分、片山翁の意見が通ったのだろう。
ジャガーEタイプ風の長いノーズと短いリアというシルエットは、片山翁の強いリクエストだったそうな。量産車をベースとし、価格を抑えるというコンセプトである。1970年にアメリカで発売されるや大ヒット! 生産が追いつかなくなってしまう。日本側の驚きときたら想像に難くない。片山翁が作ったロスにある日産のビルも凄かった!
全面ガラス張りで、405フリーウェイと110フリーウェイのすぐ横に建っている。ロス近郊に住んでいる人なら誰でも知っており、ロス南部のランドマークになっているほど(ロスからディズニーランドに行くときも通るので御存知の人も多いだろう)。文句ナシに“華”があるビルだ。ゴーンさんは「倹約出来るから」という理由から、米国日産の本社をテネシー州のナッシュビルに引っ越す方針を打ち出した(すでに移転済)。経費が若干安くなる、ということなのだけれど、2005年に決定した際、片山翁は断固反対したそうな。
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国沢 フェアレディZはダットサンブランドのポジションを決定的にしたと思います。
片山翁「いやぁ売れました。作っただけ売れる状態が何年も続きました。手頃なサイズと価格のスポーツカーを狙ったのが良かったのでしょう。若いユーザーもたくさん居ました」
国沢 1980年代以降、アメリカでお見かけする片山さんはいつも大勢の人達に囲まれ、楽しそうにしているというイメージです。
片山翁「人と巡り会う幸運を持っていたのかもしれません。特にルノーのPRマネージャーをやっていたレイ・ホーエンという人には自動車ビジネスを教えてもらいました。私の先生のような人です」
国沢 米国日産の建物も私にとっては強いインパクトがありました。
片山翁「その件について考えると涙が出てきます。宣伝マン出身だったこともあり、高速道路沿いに目立つビルボート(注・アメリカでよく見られる大きな宣伝看板)を作りたかったんです。でも許可が下りなかった。それじゃ建物全体をビルボードにしちゃおうと考えたんですね」
国沢 確かに目立ちます。立地条件も素晴らしい! 1985年に初めてアメリカに行ったのですが、あのビルを見て日産への認識を新たにしたのを今でもハッキリ覚えています。
片山翁が日産を勇退したのは1978年。アメリカの事情をよく知らない日本側によって企画された2代目のフェアレディZは売れ行きを伸ばせず、1980年に片山翁が苦心して創り上げた『DATSUN』(ダットサン)というブランドも止めてしまう。
しかもキッチリとアピールしなかったため、日産という会社がダットサンを買収したと思っているアメリカ人が少なくなかったそうな。1978年時点ではトヨタすら凌ぐ販売台数を誇っていたダットサンだったが、以後、低迷する一方になる。最後に今のフェアレディZ(Z33型)についてお聞きしてみた。
片山翁「少し大きくなり過ぎたかもしれませんね。私は初代と同じようなサイズでいいと思っています。燃費も良くなるでしょうし、価格だってもっと抑えられる」
国沢 私は初代と全く同じイメージでフェアレディZを出したら売れると思っています。
片山翁「私もそう考えてますよ。初代のサイズでもアメリカ人はあまり文句を言わなかった。もちろん広くないですけど、それ以上の魅力があったんでしょう」
国沢 その他、何かありますでしょうか?
片山翁「いやぁ私は幸せな人生を送ってきたと思います。今でもいろんな人からお誘いを受けるし、こうやって話を聞きたいという人も来てくれるんですから」
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