大先輩ジャーナリストだった車屋四六さんこと青木英夫さんが御逝去されました
業界の大先輩である青木英夫さんが御逝去された。多くの先輩方は引退すると断筆する中、闊達だった青木兄は広報車を借りて試乗インプレなど書いておられた。アクセス数を見るとあまり知られていないようなので「せっかくだから」と青木兄に連絡し、転載の許可を頂いた。何度かやりとりさせて頂き「読んでくれる人が増えましたよ」と喜んで貰ってました。
昨年末に体調を崩して入院。退院された後も何度かやりとりさせて頂いた感じでは完全復活されたのかと思っていましたが、やはり厳しかったようです。すでに親族で葬儀を済ませているということで、訃報に接したのは全て終了した時でした。ダンディな青木兄らしいですね、と思った次第。青木兄のブログ、私の知らない時代の話が多いので、興味深い内容です<国沢光宏>
洋行=ヨウコウ=海外旅行のことで、明治以来、終戦後しばらくの間使われていた、ハイカラ言葉だった。わたし生まれて初めての洋行は、昭和41年だった。当時日本人の洋行は年間30万人。観光旅行などほとんどなく、というより禁止状態といったほうがいいようで、90%以上がビジネス渡航だった。わたしが洋行できたのは、10年間続いた日本ベストドライバーコンテストの第五回に優勝したからだ。
報知新聞主催。読売新聞、警視庁、JAF。日本グッドイヤタイヤ、パンアメリカン航空、日本シェル石油協賛という、豪華メンバーだった。優勝の副賞が、パンアメリカン航空=PAN AM=パンナムの世界一周の航空券だから、それが目当てで当時の一流ラリーストなどが参加していた。
金があっても、外貨が買えずに洋行などできない時代で、この副賞は、大きな魅力を持っていた。スタートは、夜中の12時に神宮外苑を出発→箱根→丹沢山中を激しく走る本格的ラリーで、10amごろに着いたところは読売ランドだった。で、一休みしたらジムカーナ。そんな予選が終わると、北海道から九州までの上位入賞者が、小金井試験場に集められた。
写真:北海道予選の出発前
小金井では老練な試験官三名をのせて、クランクでバックなんて運転もある実技試験…午後は、1時間/1500字で仕上げろという論文だった。一流ラリーストがファクトリーチューンの車で参加のコンテスト「勝てるわけがない」と駄目元で参加したら、予想外な優勝。天から降った“棚からボタ餅”だった。
写真は五回までの歴代優勝者・右から⑤車屋四六②江原達治③田中豊三郎④松井英男①池田英三/江原は加山雄三などと共演の有名俳優・松井は赤坂老舗鰻屋ふきぬきの長男・池田は自動車評論家…全員NDCの会員仲間だった。
パンナムの世界一周航空券は最大の魅力だったが、シェル石油からの賞金20万円も嬉しかった…大卒初任給2万円前後のころだから大金だった。この20万円という金額には訳があるのだが、それは次回にして、まる一ヶ月ヨーロッパを旅して帰国したら、日産自動車の広報部長が、レオニダスというスイス製ストップウオッチをくれた。
わたしがコンテストに使ったのが、誕生したばかりのサニーだったからだ。日産としても嬉しかったのだろう。
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