時代感
昼過ぎまで原稿書き。16時から都内で打ち合わせ。強く強く感じたのが「時代感」というもの。これまで従来のイメージでいう「楽しいクルマ」(代表的な存在が大出力エンジンを搭載した輸入車)を「是」としてきた人が、ある日「面白くない」と感じる。そんな思いを時代感のある人たちが持ち始めた。
「時代感」は、おそらくもって生まれたものである。世の中の流れに超先行できる能力を持っていれば、流行を作り出せます。そこまで鋭くない感覚しか持って居ない私の場合、5〜10%の人間が感じたくらいでの「時代感」になるのだった。すでに流行り始めていることなので、当然ながら当たります。
ちなみにギョウカイではベストカーの勝股兄が、強い時代感を持っている。感度も私より強い。今日の打ち合わせで感じたのは「フレキシブルな時代感」。柔軟性あります。何度も書いてきている通り、直近で最も大切なことは「変化できたものが生き残れる」というダーウィンの名言にある。
「生き残る種というものは、最も強いものでもなければ、最も知的なものでもない。最も変化に適応できる種が生き残る」(チャールズ・ダーウィン)
刀による戦いがなくなっても剣道やフェンシングが残るように、モータースポーツは人を感動させるチカラを持つ文化だ。けれど公道での高性能は、今や過去のモノになろうとしている。ここにシガミ付いている人が多いですね、と最近強く思う。そういった意味じゃ面白いのは日本の技術です。
池澤兄のお通夜で古い知人に会う。「最近は池さんも20〜30年前のバイクが楽しいと言ってたよ」。公道での高性能は、もう時代じゃないと考えていたらしい。山崎姉に「そろそろ遊んでもらおうと思っていたんですけど」と言ったら「そうようねぇ〜。私も同じ。裏切られちゃったね〜」。
残念な気持ちでいっぱいです。
<おすすめ記事>
先週末にまさに国沢さんがおっしゃったことを体験しました。新しいプリウスの試乗をしたときのことです。ここ10年近くV8の輸入車に乗ってきましたが、プリウスに、車格などを超越した、いわば「魔力」のようなものを感じました。
時代感―手に取るように伝わってきますね。
つい10年ほど前=2000年代初頭までは小生自身、1992年式メルセデス・ベンツ260E(W124)に乗りまくって、公道外のサーキットではしょっちゅうのように時速220-225km/h(補正値)をマークして「公称値210を上回った!V8搭載のジャガーXJ8 3.5に迫る数値だ」と雄叫びを上げていたことを思い出します。そうした動きのピークは2003年でした。
何より当時、セカンドカーとして購入した1999年製ヴィッツ1000F-Dでさえもエンジンをぶん回して首都高の鉄鋼団地脇といい東北道上り・館林付近の<飛島建設館林工場>を見下ろす区間といい轟音を響かせまくっていたほどです。同車で東関道の佐倉付近でBNR34型スカイラインGT-Rの後をついて後にインプレッサWRXを従えてリミッター作動マイナス5-6km/hまで記録した上、追い抜いた成田空港行のリムジンバスの窓越しにパーカッションの「加藤訓子」嬢が長い髪をなびかせ乗っているのを目撃し「夢か現か幻か」と感じたことも今や懐かしい思い出です。
そして2004年にヴィッツ1300U-Lを購入して以来、「使いきれる適度な」87ps/11.8kgmのパワーがもたらす軽妙な走りの病み付けになってメルセデス260Eにはてっきり乗らなくなってしまいました。踏めばメルセデスB200やホンダアコードの2.0顔負けの出足を発揮するこの「二台目」ヴィッツ、小型軽量ながら速さでは決して弱者ではないという点で乗り手に自信を与えてくれ、お陰で小生の生活リズムはヴィッツによって形作られている按配です。
こうしたクラスレスな楽しさを放つスモールカーを考えた場合、21世紀に入って久しい今日、ダイハツイースこそがその最先鋒であると思えてなりません。走らせる実感がありながらも自分は地球の、人類の存続に献身している―これこそが現代のpride and joyにほかならずイースとマツダデミオのスカイアクティブはまさにその双璧、ワンサイズ大きい所ではプリウスもその目的を果たしているとは思う。