車屋四六の四方山話/サンマンダイという自動車用語、私は知りませんでした~

かつてサンマンダイと呼ぶ乗用車があった。裕福か特権階級の乗用車だった。

銀座睦屋富澤家のフォード1950年型30316/助手席治子夫人

太平洋戦争の形勢悪化で子供達を空襲から守ろうと、昭和19年から国民学校生徒=小学生の学童疎開が始まった。五年生の私は栃木県下都賀郡岩舟村の髙平寺が宿舎で、午前中勉強、午後からは農家の手伝いをする毎日だった。

昭和20年8月15日正午、本堂のラジオから天皇の玉音放送、といっても雑音が多くて内容は聴きとれなかったが「日本は戦争に負けました」の先生の一言で敗戦を知った。現在の玉音再放送はクリアだが、コンピュータ処理で雑音を除去したものである。

幸い私の家は焼け残り、9月中旬に帰宅した。少し小高い浜松町駅に降りると、いちめんの焼け野原で、東京湾のむこうに房総半島や三浦半島が見え、振り向けば富士山が見えた。駅から家までは歩いたが、途中で何台もマッチ箱のような車で走る米兵に出合った。それがジープだとは後で知った。

昭和21年1月。人間宣言で昭和天皇は神から人になった。そのころ東京の道を走る乗用車は、大半が進駐軍の車で、日本人のは戦中生き残りのボロ車だったが、1年、2年と経つうちに、チャントした乗用車も走り出した。

大臣や政府高官、大企業経営者、金満家や成金などだが、その大半がサンマンダイだった。サンマンダイというのは、三万台ということじゃない。3万0001~9999までを振り当てられたナンバープレートから来た言葉だった。

クラスメイトの家の車で日光へ/1946年型ポンティアック

差別化の目的は、第三国人名義の乗用車を区別するためだった。第三国人とは、日本に居住権を持つ外国人で、車の登録者の大半は、在日の中国人、韓国人達だった。日本人のオーナー達は、その人達の名義を買ったのだ。ちなみに、友人の家で韓国人に払った金は18万円だったそうだが、昭和27年ころなら大卒初任給6000円の頃だから大金である。

日本ダットサンクラブ主催ラリー参加車のフォード1946年型

サンマンダイは違法だと思うが、大企業社長や成金ならいざしらず、政府高官、代議士から大臣まで乗っていたのだから合法だったのだろうか? ワンマンで知られる吉田首相もサンマンダイだったのだから、合法だったのかもしれない。いずれにしても、この手段は、1952年に乗用車の正規輸入が始まるまで続いた。もっとも、日本はまた外貨不足になり、1955年から再度輸入禁止になる。

吉田茂が退職する運転手にプレゼントした1950年型ビュイック

この悪弊というか抜け道は、GHQ=連合国軍最高司令部が、乗用車生産を禁止したり、輸入禁止したりしたのが始まりだが、日本中焼け野原の貧乏国で外貨備蓄もなく、禁止されなくとも輸入する力はなかったはずである。とにかく大多数の日本人は食べることに明け暮れる毎日だったのだ。

上の写真は1952年型フォード。米軍兵士軍属家族の車で「3A」という表示をして差別化。左右はビュイック。遠方にジープと米兵

死語になったようだが、セコハンという言葉が、空襲で焼け野原になった街で流行っていた。進駐軍の兵隊が話すセカンドハンドが、日本人にはセコハンと聞こえたのだが=中古品ということだった。さて”サンマンダイと呼ぶ乗用車”だが、1952年に外車の輸入解禁でサンマンダイは消滅した。が、外貨備蓄が底をつき1955年から再度輸入禁止になったと説明した。

それが日本外車市場での、セコハン時代の始まりだった。政府は、輸入禁止実施にあたり、抜け道を用意した。サンマンダイで懲りたのか、正規輸入車が丸々2年間使われた時点で、通関して登録できるという制度だった。ようするに3年目を迎えた中古車、いうなればセコハンが、日本人が公然と買える新車ということになったのである。

ヤナセなどから正規輸入車が買えるのは、各国外交官、進駐軍兵士軍属と家族、第三国人などで、彼等の車に2年目の終わりがちかずくと、業者=ブローカーが登場して、夜討ち朝駆けでセコハンの争奪戦が始まるのである。「使ったら安くなる」と常識的判断で売った車が、高い値段で売られていると兵隊達が気がつくと、セコハン値段は値上がりしていった。

知人のシビリアン(在日の民間人)は自家用のカイザー1947年型を50ドルで売ると、ヤナセで2400ドルの1958年型VWカルマンギアを買ったが、2年目の終わりに業者同士の競り合いによる勝手な値上がりで、4500ドルに。それに500ドル足したら、1960年型ジャガーMK-Ⅱになったと喜んでいた。

写真:ジャガーMK-Ⅱ

新橋土橋から京橋の最初に開通した首都高は通行料金無し。今の有楽町マリオンは朝日新聞と日劇の跡地で、その朝日新聞側に今でもあるが首都交から張り出した空地があり、これまた無料駐車場だった。下の写真は私が空撮したもの。日劇と朝日新聞の解体直後で首都交張り出し部分は駐車場だった。

そこに見慣れた大阪ナンバーのカルマンギアが駐まっていた。「カッコーいい車ですネ」と声を掛けると、自慢顔で「大阪で一台250万円もしたんです」。自慢の車のグローブBOXには、コンパウンドで取り切れなかった、ガールフレンドのハンドバッグの留め金の傷がウッスラと残っていた。とにかく、日本人の新車であるセコハンカーが、ドンドン値上がりしていく。

梁山泊=リョウザンパクとは、中国著名小説・水滸伝で山東省梁山に108人の豪傑が集まった古事にちなみ、強者共が集まる所、という意味が生まれた。

1955年から外車が輸入禁止になり、セコハン時代が始まると、いつのまにか赤坂界隈はセコハン業者の梁山泊となった。資本力があり英語が達者な業者、右から左えと車を転売する中小業者。その間を泳ぎを廻る一匹狼のブローカー。ブローカーにも一流企業や役所が得意先、また安物専門と、いろんな狼がいた。

もちろん、ヤナセやニューエンパイヤーモータース、日英自動車、伊藤忠自動車、安全自動車、八州自動車、国際自動車、日本自動車、東邦モータース、三和自動車など、正規輸入代理店も一流セコハン業者だった。

さて1952年から54年迄の正規輸入時代、彼らは明朗会計だった。手元にある日本自動車のフィアット1100Eの価格表には、現地価格$1960+輸入経費$584.91+税金$409.44=$2954.35=106万3566円也と記されている。

同じ頃、大洋自動車でシボレー約200万円、寺山自動車シトロエン2CV・83万円、黒崎内燃機ベンツ220S・230万円、ヤナセ・キャデラック350万円というように、納得適正価格だったが、セコハン時代突入で一気に高騰した。

上の写真は接収した大手町の事務所に出勤した米軍兵士軍属の車。2年経つと通関してセコハン車に。パッカードとフォード。左端ビュイック。遠方シボレー。高騰の原因は、買った時より高く売れると知恵がついた兵隊達と、高くても売れると知ったセコハン業者の相乗効果だった。が、兵隊達も高く売るための努力を惜しまなかった。

新車が届くと、床のカーペットを外し、ホイールカバーやシガーライターも外して丁寧にトランクにしまう。傷が付かぬようステップにガムテープを貼る。アクセルやブレーキ、クラッチペダルにも貼り、新車のコンディションを保持するのだ。

ワシントンハイツなどで日曜日に、身分不相応なキャデラックやリンカーンを、黒人家族が総出で洗車したり、ワックス掛けしたりと、それまでは見慣れぬ光景に出会ったものである。

1954年型ポンティアック・スターチーフ直列8気筒AT。

級友の西村家で1954年型ポンティアックの最上級スターチーフ直列八気筒AT車を買った。240万円と聞いた。

新朝日自動車・GM、独ボルグワルドの正規輸入代理店

翌年、輸入元の新朝日自動車が高値で引き取った。何故?と思ったら、2ヶ月ほど経つとショールームに飾ってあり、積算計が8000キロほどに巻き戻されている。聞いてみると300万円を超える価格で「54年型最後の車で大陸横断でサンフランシスコから積み出したので積算計が廻っていますが」と説明された。

1955年型ポンティアック/木下産商重役の車・築地から新大橋への市場通りは地下鉄日比谷線の工事中だった。。

写真のポンティアック1955年型は、インドネシアのスカルノ大統領にデビ夫人を紹介したと噂の木下産商重役の車だが、550万円だったと運転手から聞いた。西村家の54年型が240万円だから、55年型も似たようなはずだが、それが57年には550万円。それも2年落ちのセコハンなのだから、開いた口が塞がらないとは、まさにことだった。

セコハン時代が来る前の正規代理店の商法は店頭販売で、ショールームに来た客との商談だった。我々買いそうもない学生でも、オヤジの車で乗りつければコーヒーが飲め、昼時ならサンドイッチにありつけた。

が、店頭販売とは別に、サンマンダイ時代に大手企業などに顧客を持つ実力あるブローカー達は、正規代理店の車を仲介して、口銭を稼いでいた。私も何台か売ったが、紹介&成約すると、10~30万円ほどの口銭を手にすることが出来た。

さて、再度の輸入禁止でセコハン時代が来ると、新手の業者が登場する。英語が達者で資金力があり、兵隊や外交官から直接現金で買い、関税を払い、在庫が出来るA級業者。それほどではないが、いちおう店を構えるB級業者。そんな業者の車で歩合を稼ぐブローカー。情報提供で謝礼をもらうブローカー。油断をすると危ないブローカーなどが集まる赤坂は、百花繚乱だった。

また我々修理業者もブローカーになった。中古車が不安なユーザーが、日ごろ世話になる修理屋経由なら安心というのである。

1958年型キャデラック

そんな私のところに、とんでもない情報が飛び込んできた。1959年だから、日本人にとっての最新型車は57年型なのに、58年型キャデラックが某小国大使館から出て、通関も済み在庫したからよろしくというのだ。日本にたった1台、1年物のキャデラック、誰が?何処に?幾らで? 業者が合えばその話題で盛り上がった。私も付きあいのある、木下産商、味の素、三菱商事、電通、東光電気などに紹介したが、駄目だった。

東映・緋牡丹博徒/藤純子(現尾上菊五郎夫人)&高倉健

やがて嫁入り先が決まったと情報が入った。日本でたった1台のキャデラックの後席に坐ったのは、中村錦之介、大川橋蔵、東千代之助、美空ひばり、高倉健などの、チャンバラ映画やヤクザ映画で、飛ぶ鳥落とす勢いだった映画会社・東映の大川博社長だった。

東映・宮本武蔵/中村(萬屋)錦之介&三国蓮太郎

そして売値を聞いて驚いた。なんと1900万円。当時取引可能な1957年型キャデラックなら、およそ600~700万円ほどが相場だった。ちなみに、東映封切館の入場料は、500円くらいだったと記憶する。

写真:東映・お嬢吉三/美空ひばり&若山富三郎

1958年=昭和33年というと、東京タワーが完成、当時映画は最高の娯楽で、11億人という史上最高の年間入場者を記録した年だった。

展望台付近まで半完成の東京タワー/自宅二階から

余談になるが、フラフープが流行し「お湯をかけて三分間」35円のチキンラーメン登場。坂本九、水谷良重、平尾昌章、小坂一也、ミッキーカーチス、釜萢ひろし、中島そのみ、山下敬二郎、守屋ひろしなどのロカビリー歌手を送り出した日劇ウエスタンカーニバルも、1958年だった。<車屋四六

私は1958年生まれです(国沢)

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7 Responses to “車屋四六の四方山話/サンマンダイという自動車用語、私は知りませんでした~”

  1. ハヤミ より:

    自分の父親時代の話で懐かしい感じがした。
    私の父はバスの運転手をしていた。当時の運転免許は簡単で、普通自動車を所得すると2輪(無制限)も乗れて、更新の毎にグレードがあがり2回更新すると大型二種になったとのこと。
    あんぱん10円、ハガキが5円の時に35円の即席麺は今思うとずいぶん高額だったと思う。(単純に考えるとチキンラーメン1つが400円相当になる)
    私が最初に購入した中古車が「埼5る5157」(なんで覚えているか不思議)だった。県名が一文字(重なるときは2文字以上)だった。
    昭和なんて今から2世代前(私の時代からすると明治に相当)の年代だから老いるはずだ。
    手回しでエンジンをかけた時代からするとスイッチONですぐ動く電気自動車の時代なんて考えられなかった。(ゴーカートも手引でエンジンをかけていた)
    私の上がりの車は軽のEVだな。

  2. z151 サンバー愛好者 より:

    青木先生の文章も魅力的ですね。
    終戦直後~「最早日本は戦後ではない」までの空気感というか、アメ車のV8サウンドまで聞こえてくるようです。
    21世紀になって20年以上経ちましたが、終戦直後と今の日本の共通点も垣間見えて驚きます。
    自動車が手に入りにくくなっていた時代はやはり高騰するのですね。
    キャデラックやビュイックがフェアレディZやシビックタイプRに見えて来ます。或いはランクル300かLX600か。

    進駐軍がアメリカ兵なので「高級車」といえばアメリカ車。
    多種多様に見えますがV8はOHVで基本的にビッグブロックとスモールブロック(スモールといっても5000㏄クラス)。
    フレームシャシーFRに後輪はリーフリジットという「公式」がこの先何十年と続きます。
    新車でクラシックカーが手に入るとか、基本的に壊れても何かの部品流用で蘇るというアメ車独特の面白さがある反面(ランクルもこういう一面があります)憧れの外車ポジションは緻密且つ先進的クルマ造りのドイツ車に駆逐されていったのでしょう。
    このアメ車ポジション、穿った見方をすればガソリン車至上主義に走りがちな日本車メーカーも辿りそうな道であり、「凄いぞ日本、さすが日本!」という内にココに押し込められてしまう危険性を孕んでいるように考えさせられました。

  3. SyoheiMihara より:

    素晴らしい内容の文章でした。
    セコハン高騰は背景に戦後のハイパーインフレがあったと思います。70倍の物価高騰とされますが、250倍と算出する説もあり、品目によって異なるようです。昨年他界した三本和彦さんがベストカーで連載した歴史の証人と合わせて読むと興味と理解が深まります。レポート、ありがとうございました。

  4. Rotarycoupe より:

    当時の空気感が伝わってきます。
    何だか久しぶりに大藪春彦氏の「汚れた英雄」を読みたくなりました。

  5. shige-koyanagi より:

    とても楽しいお話ありがとうございました。55年前、17歳の高校の修学旅行で熊本から東京に行った時、一日設定された自由行動の日に、ここにも筆者が書かれている「梁山泊」の名残が僅かに残る赤坂〜溜池〜麻布界隈の輸入車ディーラーを一人で散策しました。大洋自動車でシボレー、ニューエンパイヤモーターでフォードを、日英自動車でMGやモーリス、伊藤忠オートでアルファロメオを、国際自動車でランチア、新東洋企業でジャガー等など。どの会社でも高校生の私に、当時は貴重だったパフレットや資料、紙焼写真などを沢山渡してくれ、とても楽しかったことを昨日のように思い出しました。

  6. 川口 太郎 より:

    「戦争に負けて占領された惨めさ」がどういうものか、が空気感として
    非常に良く分かりますね。
    この頃の感覚が解らないと歴代政権や官僚達が「日本はアメリカのポチ」と
    言われようが、未だに「ポチ」でいる理由がやっと理解できた気がします。
    尊厳とか自信を諦めなきゃならないほどの無力感の上に現代の日本国が
    存在しているのだな、という事こそ授業の「現代社会」で習うべき事なのかも?

  7. ty3157 より:

    当時の様子がよくわかるお話ですね。この頃吊り上がった売価が、のちに正規ディーラーが設定する販売価格のベースになったんでしょうか。
    ワタクシは昭和40年代生まれですが、明治生まれの祖父が1950年代にシボレーを数台乗り継いでたそうです。おそらく2年落ちの中古(新車?)だったと思われますが、当時まだ米軍が進駐していた板付ベース(現在の福岡空港付近)に買いに行ってたそうです。いくらくらいで購入してたのか、祖父が存命の時に聞いておけばよかったと、今更ながら後悔しております。

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