車屋四六の四方山話/マセラッティの生い立ち
イタリアに、蒸気機関車の運転手を親に持つ、六人兄弟がいた。一人は芸術家になるが、残る五人が自動車に情熱を燃やして後世に名を残す。マセラティ兄弟である。1895年イタリア初の自動車レースを見た長男が、自動車づくりを決心して、1897年に単気筒エンジンを完成、自転車に取りつけて通勤をはじめた。
それが評判になり、興味を持った貴族が出資をして、二輪メーカーが誕生。完成した車は、各地のレースで優勝しながら、しだいに有名になっていった。が、1900年長男は心変わりをする。これからは四輪の時代だと、フィアットに入社して学習開始。つられて、弟たちもイソタフラスキーニに入社した。
やがて兄弟は、1913年に新会社を設立するが、折からの第一次世界大戦で航空エンジン製造に転向。で、陽の目を見たのが、弟が開発した、雲母絶縁型スパークプラグで、これが大当たり。終戦後もプラグは自動車需要旺盛で、ゆたかな資金を稼ぎ出し、1922年に念願のレーシングカーを完成。
こいつがレース場で猛威を振るうアルファロメオやフィアットを破って優勝。それからは順風満帆、勝ち星を挙げていった。マセラティを冠したレーシングカーの登場は1926年。それは、ボローニア市の紋章=ネプチューンの三つ叉鉾のデザインの、エンブレム誕生でもあった。
8C-3000 直八スーパーチャージャー230馬力・1932年/独ロッソビアンコ博物館
4CS 1500MM 直四115馬力・1934年/独ロッソビアンコ博物館
それからのマセラティは、ヒトラーを後ろ盾の、ベンツとアウトウニオンが登場するまでのグランプリ街道を、まっしぐらに勝ち星を重ねていった。
55AG60S・1940年/当時直八・3ℓ・420馬力を完成したので多分その搭載車だと思う
ここで一言。マセラティはレーシングカー専門メーカーで、乗用車もスポーツカーも作らなかった。WWⅡが終わると、再び活躍を再開して、ファンジオ、スターリングモスなど、マセラティでGPチャンピオンを生みだしていった。
1954年完成した250Fの1959年型
3500GTE
マセラティは、1957年に、経営改善のため二足のワラジを履くことになる。誕生したのが高級高性能な3500GTだった。一方、長年月活躍したレース場からは、1965年に引退し、高級スポーツカーメーカーとして今日に。<車屋四六のブログへ>
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第1段落の年数は誤っていると思います。
〇現状
自動車づくりを決心して、「1997年」に単気筒エンジンを完成
〇校正後
自動車づくりを決心して、「1897年」に単気筒エンジンを完成