車屋四六の四方山話/1ドル=360円の頃の日本

石原慎太郎東京都知事が「三国人」と発言して、ヒトモンチャク起きたことがある。差別蔑視言葉と神経をトガラセた人達がいたからだ。この三国人、正しくは第三国人だと思うが、昭和20年代から放送や新聞などに登場する日常言葉で、そもそもは連合国軍最高司令部=GHQからの、無条件降伏した日本政府宛通達文の禁止条項に、第三国人は除くとあったのが始まりと聞いている。

もちろん通達分は英語で「サードパーティー」を、日本政府の役人が翻訳するときに、第三国人としたのが、事の始まりだったと聞く。下の写真、焼け残った服部時計店は米軍PXに・都電上の教文館ビルはライフやタイムなどの米媒体が、その対面の松屋もPXだった。

戦勝国軍人と軍属はもちろん、在日外交官、そして第三国人は禁止適用外だというのだ。日本人は禁止だが、第三国人は、やっていいよというのである。たとえば、日本人が買えない輸入外車も、彼らは自由に買える特権階級だったのだ。

写真上>豪邸を接収され私の家の前に仮住まいの川崎家の1949年型ビュイックSuperはサンマンダイだった。写真下>但し進駐軍関係の車はサンマンダイではなく3Aで区別された。1953年型キャデラック。右クライスラー社プリムス。

終戦のとき国民学校(小学校)六年生だった私の記憶では、大人達は蔑視言葉として使ってはいなかった。むしろ第三国人は羨ましい人達だった。石原発言で騒がしかった頃、ラジオで毒蝮三太夫も「三国人は憧れだった」と言っていた。

1950年頃、家の前の小島さんチに、ハワイから甥っ子がやってきた。ピカピカのシボレーに乗り、その日からPXで買ったチョコレート、パイナップル、コカコーラなど、日本人憧れの食べものがいっぱい、物がない日本の家庭からは天国のようだった。

米ばかりか衣料・日常品など切符なければ買えなかった。

日本人が買えない彼らの外車は、登録番号の頭が3万から始まるので、いつしかサンマンダイと呼ぶようになった。そんなサンマンダイを、大臣や政府高官、大会社重役、金満家が乗るようになった。彼らは、第三国人といっても、主に在日中国人や韓国朝鮮人に大金を払って、買ったのである。

高校大学と同期の縄田のクロスレイHotshotもサンマンダイ

私達も恩恵を受けていた…政府支給の外食券がなくとも、中国人の店では炒飯も支那そばも食べられたし、深川枝川町や大井競馬場近くの韓国朝鮮人の家に行けば、七輪で肉を焼きながら密造のドブロクをたらふく飲めた。

外食券/1回1人1枚使用

一流商社や外車エージェントは、深川枝川町など、第三国人が住む地域に出かけては、米ドルを仕入れていた。1$=360円の頃、闇ドルは400円、時には450円ということさえあった。

終戦から、昭和30年代まで一部の第三国人は裕福で元気で、耐乏生活を送る貧しい我々には羨ましい存在だった。それがネタミに変わった人達もいたのはたしかだが、彼らが吐き出す蔑視言葉は、戦前戦中から使われていた、もっとヒドイ言葉だった。

日本が豊かになると、うらやましさは忘れ去られたが、私には第三国人という言葉に差別蔑視の意識はまったくなく、あいかわらず、うらやましい人達だったという記憶しか残っていない。

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