車屋四六の四方山話/陸王というハーレーそっくりのバイクを御存知だろうか?

1960年=昭和35年、テレビ受像器が全国で500万台を越え、カラー放送も始まるが、17型42万円、21型52万円。大卒初任給1.5万円の頃だから、安い車が買える大金だった。そのTVでビックリは、日曜深夜のピンクムードショー。TV初のオッパイちらり。それが天然色だから、男共は画面に釘付け。が、行政指導で、放映たった四回で、オッパイは幻となった。

 
1960年開催、第七回全日本自動車ショーに登場の、次期モデルのプロトタイプだったが、会社倒産で、幻となった。そもそもハーレイを大倉商事が輸入したのは、大正8年=1917年…WWⅠの最中で、戦場を走るバイクを見た陸軍は、早速購入した。
 

そのハーレイは、1930年に軍用自動車に指定されたが、翌年、陸軍キモイリで三共製薬出資『日本ハーレイダビッドソン・モータース』が創業した。当時、陸海軍は、軍艦・大砲・飛行機など、軍用機材の国産化を目指した中に、大型バイクも含まれていたのだ。日本ハーレイのトップは、三共製薬塩原社長の娘婿・永井信次郎で、1932年に渡米。詳細図面と工作機械50台、そして技術者を連れ帰国した。

写真:ハーレイ1932年型

大森に住んでいた頃、両親と大森駅から省線=JRで大井町を過ぎると、三共の敷地の赤煉瓦の工場が見える、そこがハーレイの工場だったようで、住所は東京市品川区北品川238番地だった。1935年に、念願の国産ハーレイ誕生。V型二気筒1200cc・28馬力・3MT・最高速度97粁は、米国製と同等だった。1936年、社名が三共(株)に替わるのは国策の第一段階。

1037年に、陸王(株)に再度変更で、陸軍の思惑通り、名実共に国産品に変身した。この陸王名の誕生にはエピソードがある。日本らしい名前をと言われ、ふとヒラメイタのが慶応の名応援歌♪若き地に燃えるもの。陸の王者慶応♪だった。そう、永井社長の母校が慶應義塾だから、慣れ親しんだ文句が、ひらめいたのである。1943年、陸軍キモイリの陸王は、九七式軍用二輪自動車の名で制定されて、大量生産を開始した。

で、大森だけでは間にあわず、東洋工業=マツダや日本内燃機に委託生産--というとカッコウ良いが、月産合計90台だから、当時の日本の工業力の粗末さ丸だしだった。が、九七式には世界にまさるメカがあった。側車=サイドカーにも駆動力、という全輪駆動。言うなれば三輪ジープだったのだ。

が、あえなく日本の敗戦で、1946年に民需用二輪で生産再開。以後、キャブトンやメグロなどの大型バイクのリーダー格として順調だったが、会社破産で、消えていった。当時日本の二輪市場は、戦後100社を越えた、二輪自動車メーカーの淘汰時期で、陸王も生き残れず、最後に生き残ったのは四社だった。<車屋四六のブログへ

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