日産の追浜工場、かつては海軍追浜飛行場と日本の理系の中枢である海軍航空技術廠だった

よい機会なので追浜工場について私が知っている情報など。下は海軍の追浜飛行場である。滑走路は800mと1200mの2本。今の『グランドライブ』のあたりが北側のエンドになっていた。ちなみにグランドライブ、元は日産の追浜テストコースです。ここで開発された競技車両は『追浜ワークス』と呼ばれた。R380の後期とR381、R382は追浜で密かに開発されている。

写真/国土地理院

私はテストコース時代、MID4-Ⅱに試乗したことがある。希少な試作車だったものの若かったので全開走行してしまいました(笑)。後述するけれど敷地内に戦前の日本の理系頭脳TOP達を集めた海軍航空技術廠を引き継いだ『日産総合研究所』があり、有能な人材が多数いたそうな。参考までに書いておくと陸軍と海軍は仲悪く、飛行機の開発も別に行っていたほど。

上がグランドライブ  写真/国土地理院

例えば零戦は海軍機となり『栄』というエンジンを搭載していた。同じエンジンを陸軍機の隼だと『ハ115』と呼ぶ(ハは発動機のハ)。追浜飛行場で運用されていた飛行機も、零戦や紫電改、月光(双発の夜間戦闘機)、流星(爆撃機)、彩雲(偵察機)と当たり前ながら海軍機ばかり。敗戦時、B29やF6Fといった艦載戦闘機と戦える機体は30機程度しかなかったという。

メッサーシュミット(Me163)を模したロケット戦闘機『秋水』はここで初飛行を行っている。200mほどで離陸するなど高度1万mで爆弾を落とすB29迎撃機としてのポテンシャルを見せたものの、燃料の偏りで上昇中に失火。墜落してしまった。そもそも試験飛行を行った昭和20年7月7日時点では我が国の迎撃機が枯渇しており、B29も2000mという低空で爆弾を落としている。

写真/プレーンズ・オブ・フェイム航空博物館

前述の通り海軍航空技術廠と陸軍航空技術研究所(立川)は日本の頭脳と言われた東京帝国⼤学航空学科卒の逸材ばかりを集めていた。敗戦後、そういった人たちが自動車産業を立ち上げたのは誰しも知っていることかと。海軍系は日産や三菱。陸軍系がスバルですね。今でもこの3社は東大系の技術者がおおい。いずれにしろ20年間で世界と戦える飛行機を作った人たちです。

戦後の追浜飛行場

戦後の追浜飛行場についての資料はほとんど無い。唯一上にリンクしたこの方が調べており、参考になる。まずフジキャビンを作った『富士自動車』が米軍車両の修理を請け負う。富士自動車は東京瓦斯電気工業と統合。日野自動車やDMG森、日立アスティモなどは富士自動車がルーツです。1955年に米軍の請負を失ったため、追浜飛行場跡地を日産へ売却した。

以後は日産の歴史に出ている通り。大規模の工場を1961年に立ち上げる。当時、日本最新の生産ラインを備え、溶接ロボットやモジュール生産など今に繋がる技術を立ち上げている。日産総研の頭脳を持ってすれば当然だったかもしれません。1999年にゴーンさんが日産総研を訪れた際「ここには全ての技術がある!」とウナったそうな。追浜工場、どうなる?

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2 Responses to “日産の追浜工場、かつては海軍追浜飛行場と日本の理系の中枢である海軍航空技術廠だった”

  1. Amigo より:

    日産は工場を閉鎖するぐらいなら、納期の長いランクルやジムニーを受託生産すればよい。

    オーストリアのマグナ社のように受託生産専門会社に分離する方法もありかと。そうすれば日産本体と技術的なファイアーウォールも可能。

  2. アクシオム より:

    そういえば、昔日産本社の部長まで行って、いまでいう日立ステモの源流になる厚木自動車部品の役員になって退職した伯父さんが旧東北帝大卒で、やっぱり戦時中は陸軍だか海軍になんらかの形で携わっていたようです。
    その伯父さん、昔の人だからそうなのかもしれませんが、自動車会社の役員なのに自動車免許はもっていなかったし、ワタクシのようなクルマ小僧とクルマの話は一切してくれなかった。むしろうちの親父殿と話すことは、経済と科学とか戦闘機の話。ホント、この伯父さん日産に勤めていたのか?という人でした。
    この伯父さんを筆頭に、母方の親戚はみな日産社員が多かったけど、工場勤務に嫌気がさしてアメリカに行っちゃった叔父さん、労組の活動に懸命となってなぜか横浜輸送(現バンテック)の部長になってしまった伯父さんなど、みなクルマの話はしたがらず、労組のおじさんは選挙の話ばかりして親戚中から嫌われていましたね。
    日産のクルマは好きだけど、会社は昔から好きになれませんでしたね。
    日産には大東亜戦争で負けた旧陸軍の無様な組織を感じますね。いくら我々客がこうしてほしい、こうなってほしい願望があっても、その通りにならないことがよくわかります。それを証明しているのが日産の歴史であり、日産に勤めていた親戚かも知れません。
    クルマの会社なのに、クルマに関心ない人たちが動かしている会社。それが日産です。

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