車屋四六の四方山話/フォードは5千機以上のB25を生産した
1939年にドイツがポーランドを急襲し、日本軍の真珠湾攻撃で、WWⅡが本格化した。戦争が始まれば、各種企業が兵器生産を開始する。で、1942年2月10日、フォードは兵器生産体制に入った。
自動車が造れないフォードの戦時中広告
同様に、米国の自動車メーカー各社も、41年後半、42年早々に乗用車の生産を中止した。再開は、戦争が終わる1945年後半まで待たねばならなかった。
戦後再開第一号車をトルーマン大統領にプレゼントするフォードの長男エドセル
さすがフォードは世界的大企業らしく、あらゆる分野の兵器を生産した。有名なところで、ウイリス社と分担生産したのがジープ。42年から45年という僅かな間に、実に27万7896台を戦地に送りだした。
1943年型ジープ/L3362xW1732㎜・直四SV2199cc60HP/トヨタ博物館
その他、軍用トラック9万3217台、戦車2718輛、水陸両用車1万3000台(6月28日アップのフォードの水陸両用車を併読願います)、装甲車1万2500台を送りだした。
得意分野の自動車関連兵器に加えて、発動機も得意分野で、航空エンジン5万7851基、戦車用2万6984基のほか、過給器5万3000基を生産した。御承知のように排気タービンと呼ばれたターボチャージャーは、日本軍がノドから手が出るほどに欲しかった、エンジン部品だった。一方、コンソリデイテッドB24リベレイター四発爆撃機もたくさん作った。
5000機目のB24にサインするフォードと長男
B24を量産するフォードのウイローラン工場
1万米上空を、ゆうゆうと編隊で飛ぶボーイングB29爆撃の編隊を攻撃する日本軍の戦闘機はフラフラで、ニュースで語る果敢な攻撃など、出来なかった。
苦労して上がった上空で待ち、やってきたB29を一連射すると、失った高度を回復するまでにB29は行ってしまう。確実に落とすには、体当たりしかなかった。
ゼロ戦や隼にはターボチャージャーがなく、装備した疾風や紫電改なども品質が悪かった。「稀少な耐熱金属がなくステンレスじゃ高温に耐えられない。排気管の500度以下になる場所を探して取りつけた」とは、中島飛行機の技師、プリンス自動車の創業者、後の日産副社長になる中川良一から直接聞いた話だ。
陸軍四式戦闘機・疾風/中川良一の誉2000馬力搭載。戦後修復されて入間でデモ飛行・現在は九州知覧特攻記念館に展示されている。
フォードは、WWⅡでは米国に偉大な貢献をしたわけだが、戦後不要になった爆撃機の製造工場は、入札でタッカーが落札したのに、官民一体の陰謀で、カイザーフレイザー社に渡された。5月28日アップの{タッカー1948}も併読願います。<車屋四六のブログ>
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太平洋戦争中は、アメリカは排気タービンにより駆動されるスーパーチャージャー(俗に言う「ターボチャージャー」)を実用化していたが、日本ではエンジン本体の動力により駆動されるスーパーチャージャー止まりだったと思います。特に、気圧の低い高空では、ターボの効率が圧倒的に高く、日本は手も足も出せなかったと聴いています。