車屋四六の四方山話/自動車黎明期のテストコースについて

自動車メーカーには、それぞれ高速試験場があるが、昔日本が貧乏だった頃は公共試験場を共用していた。日本自動車研究所の最新試験場は、2005年開所の茨城県城里センターだが、それ以前は、1961年開所の茨城県谷田部の自動車高速試験場だった。

茨城県谷田部の高速試験場/筆者空撮。

太平洋戦争が敗戦で終わり、日本の自動車造りがヨチヨチ歩きを始め、ようやく一人前になり、高速走行試験が必要になって生まれたものだった。我々ジャーナリストも、自動車雑紙依頼の新車テストで、またポルシェなどの新車試乗会などで、たくさん走った想い出深いコースだ。

が、まだ高速で走れない時代にも試験場はあった。WWⅡ=太平洋戦争前に造られたもので、新車試乗の記事を書くためにしばしば訪れた。東村山市富士見町五番地・工業技術院機械試験場というのが正式名称だった。左直線は鉄道。コース内の丸い舗装部分で著名F1ドライバーP.タルフィがレーシング講習を開いたこともある。

 

荒れた路面のコースは西武線から見えました(国沢)

楕円コースの北側には西武鉄道の多摩湖線が走り、電車から丸見えで機密保持などまるで駄目なコースだが、当時は問題なく、すべてがノンビリした時代だった。一周6粁でバンクの手放し速度190粁の谷田部とは雲泥の差で、村山は2本の400m直線路をむすぶ2個のカーブが200米=一周1200mというこじんまりしたもので、東側カーブはフラットで無理だが、西側はバンクがあるので高速で走れた。

が、ラジアル誕生前のバイアスタイヤと良いかげんなサスペンションでは、時速100粁が精一杯。舶来スポーツカーでも120粁だった。論より証拠というコトワザ通り、ロータスヨーロッパの性能を過信したジャーナリストがバンクから飛びだして大破。輸入業者の車引取り拒否で、CG誌が泣く泣く買取ったという話しも聞こえてきた。

1970年に誕生したVW・K70Lを村山で試乗したときの写真がある。戦前からの舗装が痛んだままで、目地には草が生えて凸凹、バンクでも高速では神経を使った。このK70誕生頃のVWは、長年の世界的ベストセラーで根付いたビートルのイメージを打破する新型車開発に試行錯誤、開発しては失敗を繰り返していた。

VW1500/ビートルの流れでRRだった

RRにこだわる、1960年登場のVW1500はイマイチ盛りあがらず。67年登場のVW1600TLも、ポルシェと共同開発のスポーツカー914も駄目で、登場した次のバッターがK70だったのだ。

VW1600TL/RRを未だ引きずっていた

K70は画期的だった…それまでの空冷水平対向エンジン後部搭載+後輪駆動のRRから、水冷直四前部搭載+前輪駆動のFFで、RRというビートルの遺産からようやく脱皮した。「RRのユニットを逆にして前に移せばFFだ」と呑気なことを言う野次馬もいたが、そんな簡単なことではなかった。VWには未知技術のFFだから、技術を蓄積したNSU社に依頼、Ro80を参考に開発したと聞く。

初代ゴルフ・ヤナセ報道発表会は明治神宮絵画館前だった

ドイツ、ヨーロッパで売られるK70は75~90馬力だが、輸入元ヤナセの客層はゼイタクということで、写真の72年型はツインキャブで105馬力、最高速度180粁という高性能バージョンのK70Lだった。

全長4485㎜は、次モデルのゴルフより大柄だから、FFならではのフラットな床のキャビンは広びろ、大きなトランクに感心したものだった。試乗後の評価は高かったが、ユーザの人気は盛上がらず、日本のVWファンは、74年に登場するゴルフを待たねばならなかった。<車屋四六のブログへ

 

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One Response to “車屋四六の四方山話/自動車黎明期のテストコースについて”

  1. Mr.kW より:

    東村山にあった機械試験場のテストコースの航空写真は裏焼ですね.ここは現在大部分が東村山中央公園になっていて,写真の上側の一部が東村山西高等学校になっています.これらで地図検索していただいて,写真の上部を横切る新青梅街道とその上部にある東村山浄水場などの位置関係を見ると分かると思います.
    当時の雰囲気はわかるので,大きな問題ではありませんが.

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