車屋四六の四方山話/スズキのマー坊を御存知か?

WWⅡが終わり日本は自動車先進国の欧米を目標に、追いつけ追い越せと懸命努力して、たくさんの車名が生まれては消えていった。その中に愛称「スズキのマー坊」と呼ぶユニークな車があった。誕生当初は強烈なインパクトで知名度は高かったが少量生産車らしく、もう憶えている人も少なかろう。

正式名は、マイティーボーイ。誕生は昭和58年=1983年だった。昭和58年といえば日本経済はバブルに向かい急成長中。自動車業界も、1年間で23車種もの新車が登場する景気の良さだった。

運転席は芸文舎ピットイン編集部の宇賀神守

コロナFF5ドア、シャレード、シャリオ、アスカ、カローラ、スプリンター、セドリック、グロリア、バラードスポーツCR-X、シルビア、ガゼール、クラウン、ギャランΣ、エテルナΣ、フェアレディーZ、シビック、ドミンゴ、ブルーバード、バラードセダン、カルタス、ミラージュ、ランサーフィオーレ。

ディズニーランドと駐車場/空撮筆者とテレカ

 21世紀に生まれた若者なら、もう知らない名前もあるだろう。マー坊と同じ1983年生れのディズニーランドやファミコンは今も元気だが、テレホンカードはスマホの普及で今や忘れられた存在となってしまった。

一方、高級車クラウンが大衆車のように売れたり、舶来独占試乗のスペシャリティーカー市場に日本車のソアラが殴り込みをかけたり、日本中が元気だった。 

ソアラ/九十九里海岸

イメージアップのCMモデルには大物を。例えば日産は、グロリアにゴルフの帝王ニクラウスを。スカイラインにポールニューマン。ローレルにジバンシーなど、世界の大物を起用した。

さて、本題に戻りマー坊だが、特殊な車なのに開発は巧妙だった。1982年登場のセルボ二代目の後半部をピックアップに改造して、軽のスペシャリティーカーを作ったのだ。これなら少量しか売れない特殊な車だが安く売って採算が取れるという、素晴らしいアイディアだった。

セルボ二代目/三浦半島で

いまから40年前に突然現れた軽のスペシャリティーカーのマイティーボーイは、僅か3年間の販売だったが人気はあった。そんな車の開発の動機を、自動車評論家・鈴木五郎が「あれは助っ人だったんだヨ」と言っていた。

スズキのマー坊誕生の頃、スズキはホンダ、ヤマハに次いで世界第三位のオートバイメーカーだった。一方、軽自動車業界で時々奇想天外なことでヒットを飛ばすメーカーでもあった。日本の軽業界が青息吐息だった1979年、税の盲点を突き乗用車を商用車仕立てにしたアルトの格安価格実現で大当たり。つられて軽市場全体が息を吹き返した。

その後スズキは米国市場にも目を向けGMと手を結んだ。米国でリッターカーを8万台と見込み、国内と合わせて10万台の生産体制で工場も新設した。完成したカルタスをいざ輸出という時に、降って湧いたような災難が降りかかる。日本政府が米国の圧力に屈しての、対米輸出自主規制だった。

「各社の輸出割りあて台数を過去の実績で」というのだが、スズキの実績はゼロ。巨大GMが日本政府に根回ししたのだろう。1万台という枠を得た。とはいえ10万台態勢の新鋭工場を米国1万台+国内2万台=3万台で稼働したらとうぜん赤字。

セルボ

窮余の一策が別の車を流そうということだった。新車を開発している時間はない。スズキ得意のありもの流用、セルボ改造での新車開発だった。生まれたのがマイティーボーイ。後席を含めて後半分の屋根やガラスを取り去り、後部を荷台にしてスポーティーなピックアップをデッチ上げたのだ。

前から見ればセルボ。後ろに回ればピックアップ。まだRVとかSUVなどの言葉はなかったが、若者達は便利な遊び道具と本能的に受け止めた。上等なLグレードなら後部サイドにルーバーが切られた三角板がつき、トノーカバーを掛けるとオシャレなクーペ姿に。カバーを捲ればタップリ荷物が積めるピックアップ。遊びにはもってこいだった。

2+2のキャビンは実質二人乗りだからゆとりがあり、リクライニングでくつろげ、短かなシフトレバーを操れば気分はスポーツカーだった。いずれにしてもスズキのマー坊こと、マイティーボーは10万台態勢の新鋭工場を救うために生まれた助っ人だったのだ。

そして表向きは貨物自動車だが、走れば最小最軽量のライトウエイトスポーツカーというスズキ得意の隠れ蓑的手法で生まれた。結果オーライという、傑作の誕生だったのである。<車屋四六のブログへ>

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