車屋四六の四方山話/日本車をアメリカに認めさせた偉人。クルマ好きならぜひ覚えておいて

1998年、米国から快挙が届いた。ミスターKが米国自動車殿堂入りしたというのだ。ミスターKとは米国での愛称で、本名は片山豊。我々親しい連中はオトッツァンと呼ぶ。98年度の顕彰者は、シトロエン、オペル兄弟、ツェッペリン伯爵などと一緒だった。過去の日本人の殿堂入りは、本田宗一郎、豊田英二、田口玄一に次いで四番目。殿堂には、フォードやエジソンなど、偉大な先輩達ばかりだ。

オトッツァンは、昭和10年慶大を卒業して日産に入社、ダットサンが本格的量産販売にかかる頃だった。で、オトッツァンとダットサンの長い付きあいが始まった。昭和11年、宣伝課に配属されると、先ず考えたのが「ダットサンを売るには名前を売らなきゃ」だった。で、打った手が、当時としては、奇想天外の連発だった。

1937年型ダットサン・セダン

先ず、ダットサンガールを組織。資格は女学校卒。当時、女学校は良家の娘達ばかりで卒業すれば嫁入り→良妻賢母というコース。就職なしだから話題となった。いまで言う「ミス・フェアレディ」だ。また宣伝写真やイベントに銀幕を飾る一流女優を採用して、世間の注目を集め話題をさらう。宝塚少女歌劇に対抗して、当時評判の少女歌劇に目を付けた。

 一人だけソフト帽は男装の麗人と一世風靡した水之江滝子

1982年に閉館した浅草国際劇場のSKD=松竹歌劇団の舞台に、10台ものダットサンを走らせたり。常識外れの手法でダットサンの名を世間に知らしめた結果、街で小さな車、オースチンセブンが来ても「ダットサンが来た」というようになり、小型車の代名詞になってしまった。当然、小型車市場では、トップブランドになった。

が、さあこれからという昭和16年、12月8日の真珠湾攻撃で、日本はWWⅡ=第二次世界大戦=太平洋戦争=大東亜戦争に突入して、ダットサンはヒト眠りということに。そして、予想外な敗戦により占領されて自動車製造禁止令。その解除が1947年3月。で、8月には吉原工場から戦後のダットサン一号車が出荷できたのは、さすが戦前のNO.1メーカーだった。

ダットサンスポーツDC3と故金子昭三氏。後方は江の島

車の構造が戦前のままだったのは言うまでもない。が、それで生産が再開すると、オトッツァンは、ダットサンをベースにスポーツカーを造った。ダットサン・スポーツDC3型だ。「自動車メーカーには儲からなくてもいいスポーツカーが必要だ」が、オトッツァンの持論だった。日産を一生愛した片山豊ことオトッツァンは、退職後にJAFスポーツ委員長だったように、モータースポーツも愛した。

第一回自動車ショーのカタログ。車輪は満州の古物商で見たイメージ

1955年日本スポーツカークラブ=SCCJを創立し会長に、というようにである。意見異なる各社を調整して、全日本自動車ショーを開催も彼。そんな1955年、ダットサンは戦前型から戦後型110型に変身。エンジンが戦後型で強力になった210型になると、頃はよしとチャレンジたのが、当時世界一過酷と言われた、豪州一周モービルトライアルだった。

豪州ラリークラス優勝の210富士號/ドライバー難波靖治

その第三回には、二台の210がスタートしたが、片山監督の指示は「とばすんじゃない・追い越すな・ユックリ走れ」。彼の目標は優勝ではなく完走。ダットサンの名を世界に知らしめるのが目的だった。当時世界的に有名な日本の悪路を、タクシーで鍛えた頑丈さに自信があったのだ。世界の強豪が衝突、故障で脱落する中を完走。蓋を開けてみれば、クラス優勝だった。

米国日産本社と片山社長と240Z

{日本車初優勝}と、英国ロイター通信が発信して、昨日まで誰も知らなかった、東洋のダットサンの名が世界に届いた。このあとオトッツァンは、ダットサンを携えて米国に乗り込む。売れなくてトヨタも休眠状態の米国で、孤軍奮闘を開始する。210からブルーバード、そしてフェアレディー1500。

サファリ優勝へ出発する510/右は難波靖治監督で豪州ラリー優勝者

徐々に売り込み、実績を上げながら、日産本社に提案し、注文を押しつけ、登場したのがブルーバード510とフェアレディー240Zだった。また「こんな女々しい名前で米国で車が売れるか」と、すべてダットサン名に統一。また商社任せだった輸入業務も、米国日産を創立し、初代社長になる。510は「ベンツのような機構で安く」で。240Zは‥‥。

「女事務員でも買える価格で雨風寒暖いとわずジャガーEのような車」という注文だったそうだ。結果510は世界的に売れ、念願のサファリラリーに優勝。240Zもオトッツァン在職中の12年間で30余万台、トータル130万台というスポーツカーとしては空前の売れゆきを示したのである。米国では今でもZカークラブがあり、片山さんをFather of Z-carと慕う。米国ではミスターKで通用する。

後年キレイでしょうと写真で作った年賀状が来た

オトッツァンは米国引揚げ時「長いこと有り難う」と女性秘書に愛車240Zをプレゼント。日産退職後もJAF、SCCJやRJC(自動車研究者&ジャーナリスト会議)などの良きアドバイザーであり、ゴーン社長にも提言したようだ。フェアレディー存続、輸出再開はその結果だろう。下の写真はRJCの会合で、左から荒木貞発元男爵、筆者、片山豊、星島浩、顔の一部はマツダOB小早川隆治。

米国の自動車殿堂入りはそんな実績の当然の反映だろう。現在ダットサンの乗用車名は消えてしまったが、誕生からの一生を共にし愛した片山豊=ミスターKを、日本ではミスター・ダットサンと呼べきだと思うが。「一つのブランドを確立するには何億・何十億という金と長い年月が必要・それを簡単に捨てる経営者は馬鹿としか言いようがない」と、オトッツァンは晩年に呟いていた。<車屋四六>

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