終戦の日に行われたフェアウェル爆撃を始めて知った(14日)

明日は終戦の日である。戦争終わって70年経つけれど、この時期になると新しい状況が出てきます。本日知ったのは『フェアウェル爆撃』。日本語にすれば「さよなら」とか「最後の」といった意味。米軍は長崎に原爆を落とした8月9日に日本の降伏を確信する。何らかの感触を得たのだろう。そして11日に日本への爆撃を休止したようだ。

日本側からすれば長崎に広島と同じタイプの爆弾を落とされたと判明した時点で「次は東京か?」みたいな恐れも持ったろう。実際3発目の原爆も準備されており、小倉か新潟、京都を目標にしていたと言われる。激しい空爆を2度も受けている東京に落とされることも想定しただろう。けれど降伏に反対する安PON短が多かったようだ。

全国民玉砕論だってあったくらいですから。アメリカ側からすれば長崎から3日経っても降伏しない状況にイラだったのだろう。その結果が14日夜から15日朝に掛けて行われたフェアウェル爆撃である。東京大空襲に匹敵する数のB29を使い、熊谷と伊勢崎、岩国、秋田県土崎を狙った。日本政府が降伏の意思を表明していれば、この爆撃は無かった。

4目標合わせ500機規模のB29が使われたというから、米軍の勢力からすれば最大規模の攻撃だったと思われる。ちなみにB29は日本攻撃専用と言ってよい機体で、グアム、サイパン、テニアンなどに配備されていた。稼働機の大半をフェアウェル爆撃に使ったということだろう。この爆撃で2000人以上の市民が亡くなった。死ななくてもよかった人です。

第2次世界大戦の情報を知るにつれ腹立たしいのは当時の軍の上層部である。特に陸軍だ。当時、敵側の捕虜は「戦場に掛ける橋」(捕虜を鉄道建設に使った)で知られる大量投降を除き、問答無用で殺害していたという。当然の如く日本の軍人さんもアメリカ側の捕虜になったら惨殺されると思っていたらしい。だから最後まで戦わざるを得なかったワケ。

捕虜になった日本兵の”ほぼ”全てが、アメリカ軍の厚遇に驚いたと言う。日本軍として戦っていた時は食料も水も無し。ケガしても放置。なのに捕虜になった途端、食べ物はアメリカ軍を基準とした量が配布され(食べきれない量だったという)、大きいケガは後方に移送して治療してくれたそうな。殺されるなら最後まで戦うしか無い、と思っていた人が不憫です。

終戦の日は何でもいいから当時の日本軍の苦労を記録した本でも番組でもWebサイトでもいいから接することをすすめておきたい。というか、それこそが戦争で亡くなった先達の供養になると思う。Webなら「第二次世界大戦 餓死」などと検索してみると、当時の状況が最もクッキリ解ります。自衛隊を持つのはいい。けれど戦争放棄は素晴らしい憲法だ。

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