車屋四六の四方山話/三菱コルト

思わぬ敗戦で、兵器が造れなくなったアジアの大企業三菱は、GHQの財閥解体命令により、分割されて、踏んだり蹴ったりの目に合っていた。

で、三菱重工水島製作所はオート三輪貨物の{みずしま}を作り、1952年に名古屋製作所が開発したのが、三菱500だった。良い出来だったが、売れなかった。それならと、フルモデルチェンジというよりはフェイスリフトだが、493cc/21馬力から594cc/25馬力にしてRRのまま、感心するほどスタイリッシュに変身した。

昭和37年=1962年にベールをぬいだ美しい車は、コルト600デラックスを名のった。コルトは、三菱の車では、最初のペットネームだった。そのころの日本は、戦後の貧困から抜け出して、上向きとなった経済に刺激されて、そろそろ自家用車でも、という時代が目前に迫っていた。

他の自動車メーカーも、新車開発、車種増加に懸命だった。それで800登場と思ったが、こいつは経営上の失策だった。800の開発は京都工場。同じ会社で競合車種開発は、戦中からの三菱の縦割り社風の悪い面が出たのだ。

800登場は1966年だが、その前1963年に名古屋工場がコルト1000を発表している。諸元は全長3820x全幅1490㎜・車重840kg・直四OHVは977cc・51馬力・4MT・最高速度125粁。1000DX=64.8万円だった。

コルト1000F

一方、コルト800の三気筒45馬力は、2サイクルで排煙と非力が不評であまり売れなかったので、1966年にコルト1000の4サイクル55馬力に換えて、1000Fになった。

コルト1000DX/人物は時計業界では著名な本間誠二・NDC会長・JAFスポーツ委員でも活躍した。コルト1000誕生の1963年は、日米初のTV宇宙中継成功の年。それを見ようと待ち構えたところに跳びこんできた映像が、ケネディー大統領の暗殺シーンだった。コルト1000は評判よかったし、余裕ある設計だったので、1500に発展する。一方、プレーンバックの1000Fも好評で、こいつはラリーなど、スポーツで活躍する。

WWⅡ終戦まで、ゼロ戦や戦車造りに励んだ、三菱の闘争心は生き続けているようだ。三菱の体質はレース好きで、やがてパリダカ優勝、マカオGP優勝など、レース界でも発展を続けるのである。<車屋四六兄のブログ

<おすすめ記事>

One Response to “車屋四六の四方山話/三菱コルト”

  1. z151 サンバー愛好者 より:

    コルトにランサーにギャラン。そしてパジェロとトライトン。
    かつて戦闘機を作っていた会社は時代を越えて今度はクルマで戦っていたんですよね。
    人を殺し合う戦争は最も愚かな人間の行為ですが、スポーツは競いながらも称えあうもの。
    クルマという道具を用いてスポーツするモータースポーツだって立派なスポーツ。
    コストもかけず、縮小均衡を20年近く続けたら人工心肺装置が必要なくらい生命力がなくなってしまった三菱自動車ですが、息を吹き返して欲しい。

コメントを残す

このページの先頭へ