自動車メーカーの傾向と対策(あくまで個人的な見解です)日産編

日産自動車の歴史は長い。日本車が米国進出で大成功した根っこを作り上げる片山豊さんに、けっこう長い時間インタビューする機会を持てた。面白いとか凄いとかいう話じゃありませんでした。当時で御年101歳。伝説の人の話が次々出てくる。創始者の一人である鮎川氏のことを「義介」と呼んだり、戦前の満州政策の話になったり。日産というより日本の歴史です。

右から2人目が片山さん

戦後オースチンの技術を取り入れ、そいつをベースにエンジンバリエーションを増やしていくなど、海外の技術を積極的に取り入れたクルマ作りをしていく。とはいえアメリカに進出すると、日本の技術は全く通用しなかった。圧倒的なパワー不足に加え、車体技術だって基本骨格がラダーフレームのトラック。片山さんによれば高速走行すると振動で分解しそうだったと言う。

同時進行形でプリンス自動車を合併する。荻窪に本拠地を置くプリンス自動車、スバルの項でも紹介した通りルーツは中島飛行機のエンジン部門だ。日本の最高頭脳が集まっていた、と言い換えてもよかろう。櫻井眞一郎さんは星形7気筒×2列の『栄』をベースに、星形9気筒×2列の『誉』を開発した中川良一さんの”部下”であります。中川さん、凄い技術者でした。

中川さんのレポートが残っています

中川さんは「誉」が酷評されたことを相当気にしていたという(残年ながら直接お話は聞けず)。2000馬力級ということで開発されたものの、壊れないように使うと実力は1500馬力にも達したかったと言われる。そもそもエンジンオイルやガソリンの質が開発時に「大本営」から約束されていたより低かったから仕方ない(100オクタン仕様ながら90オクタン程度しか使えず)。

そんな悔しさをレースにぶつけた。4気筒のスカイラインのフロントを伸ばして6気筒積んだり、ツインカムエンジン開発してR380を作ったり、日産に吸収されてからも左右分割して動くリアウイング作り、レース直前で大排気量のシボレーを搭載したり。レースを”平和な戦争”と考えた。ライバルのトヨタは翻弄され、日本グランプリで1回も勝てませんでしたね。

R380/R381/R382

当時「技術の日産」と呼ばれていたけれど、技術を持っていたのはプリンス自動車であり、そこから技術導入をしたのだった。ちなみに戦時中に日本の技術を全て引っ張っていた海軍航空技術廠が、日産の中央総合研究所になったと言っても良い。マスキー法を最初にクリアしたのはホンダCVCCとマツダのロータリーながら、どちらも普遍的な技術じゃなかった。

中川さん達が考えたO2センサー使う3元触媒方式は世界のスタンダードになります。その後も絶対に不可能と言われた「汚染された都市部より綺麗な排気ガス」が要求されるULEVも先行発表したホンダより安価にクリアできる技術を発表。日産のエンジン制御技術、世界1と言ってよかった。振り返って見ると日産の技術やレーシングカーって、みんな凄い!

マスキー法の250分の1になるSU-LEV

じゃ日産がなぜダメになるかといえば、事務方の足の引っ張り合いです。最終的に大赤字を出しルノーの助けを借りなければならなくなったのは、労働側の代表が絶大な権力持った労働問題。ゴーンさんは2万人の人員整理したのだけれど、それでも日産の開発や生産に”ほぼ”影響を与えなかった。2万人ものの余剰人員を、労組が強かったため削減出来なかったワケです。

日産OBの天下り先になっていた関連企業は、自社の利益確保のためライバルより高い部品価格を日産に払わせていた。高い部品使い、2万人の余剰人員を抱えていたらダメになるのは当然のこと。ゴーンさんは余剰人員を切り、たくさん作り上げた関連企業を売り払い(これで借金を返した)、日産本来の持ち味を引き出す。本来優秀な人が多かったので、見事復活します。

そんなゴーンさんも「澱む水は腐る」。いろんな場所に齟齬を来していたと思う。本来なら2017年に引退しておけばよかった。晩節を汚しましたね。新しい体制がどうなるか読みにくい。日産社内の政治や足の引っ張り合いは外からだと解りにくいです。現在社内留保金も豊富! 指導者が良い方向にパワーを向けてくれたらすぐ立ち直ると思う。

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